星月夜の森へ/番外編

── ReWind

栗と銀杏

 その日、昼過ぎに高校から帰って来た孝史が持っていたのは、袋一杯の栗だった。
 昼食を食べた後、茹でた栗の皮むきを如月も手伝った。
 まだ小学五年生だが、包丁を使う手つきは慣れていて、危なげない。普段からの手伝いの賜物だ。
「孝史、今日の夕飯は栗ごはんで良いのよね?」
「ちゃんとその分は残しとく」
「じゃあ、今日は秋刀魚でも焼きましょ。じゃあ、買い物行って来るから、ふたりともお留守番よろしくね」
 台所で、せっせと栗の皮むきをふたりの姿を微笑ましく見遣って、久美は夕飯の買い物に出掛けた。
 皮むきが終わり、冷凍保存用の分をフリーザーバッグに詰めると、さすがに如月はお役御免となった。
 テーブルの上で、宿題をやりながら、甘露煮を作り始めた孝史の方を時々見る。
 三回に一回くらいは、「どした?」と振り向いてくれる。
 苦手な算数のプリントが終わった頃合いを見計らったように、
「ほら、口、開けな」
 言われた通りにすると、ころんと丸いものが入って来た。舌で押さえるとほろほろと崩れて、口の中に甘さが広がった。
「栗きんとんの半端。きちんとしたのは、母さんが返って来てからな」
 いつの間にか、甘露煮は三本のビンに詰められている。
 どうやら同時進行で、栗きんとんもつくっていたらしい。見れば、パイ皮も調理台の上に用意されていた。
「それまでに、こっちも作って台所片付けないとな。夕飯作る邪魔したら、後が怖い」
 孝史がお菓子作りを始めたのは中学に上がってすぐのことだった。
 台所を使うにあたって、久美は条件をひとつだした。
 食事の支度の邪魔にならないこと。
 それを破ったら、夕飯の食器洗い一ヶ月と同時に台所の使用禁止にすると言い渡し、現に何度か、孝史はその罰を受けている。
 マロンクリームと丸ごとの栗を包んだパイが焼き上がる時間を見越したように、久美は買い物から帰って来た。
 栗きんとんとマロンパイをお茶請けに、三人がテーブルを囲んでいると、
「お、美味そうなもん食ってんなあ」
 午前中からジムへ行っていた泰徳も加わって、午後のお茶は賑やかなものになった。

 予告通り夕飯は、栗の炊き込みご飯に、たっぷりの大根おろしが添えられた秋刀魚の塩焼き、青菜の白和えと、秋満載な食卓となった。
「そういえば、松茸の土瓶蒸し、今年はまだだな」
 ほろ酔い加減の泰徳がこぼした呟きに、
「そうだったかしら。明日は茶碗蒸しにしようと思ってるんだけど」
「銀杏入れて」
 どうやら妻と息子には見放されたらしいと悟ると、
「さらは松茸の土瓶蒸し、好きだよなー」
 と、秋刀魚の身を解すのに悪戦苦闘している如月に水を向けたが、
「銀杏、好き」
 松茸の土瓶蒸しにも銀杏は入っているわけで、どちらに味方しているのか微妙な言葉が返って来た。
 最近、ようやく見せるようになった、屈託のない笑みも添えられていると、「そういう話じゃなくってだな……」などと言うこともできず、泰徳はやや情けない顔で苦笑しながら、
「そうか、じゃあ、今度、銀杏拾いに行くか」
 と、如月の頭を撫でた。
「それなら、明日、お宮さんにお参りがてら、行きましょ」
 お宮さんと言えば、如月にとっても、全く知らない場所ではない。
 大晦日から元旦に掛けては初詣の客で賑わい、夏は広い境内で盆踊りが催され、秋祭りには神楽が奉納されるなど、地域の中心でもある。
 そういった行事が身近で当たり前のことだと知ったのは、秋津家で暮らすようになってからのことだったが。
「先週の台風で全部落ちて、もう拾われちゃってるんじゃない?」
 孝史はやんわりと異を唱えたが、久美はそれに気付いていないのか意に介していないのか、
「まだ大丈夫よ。明日、晴れると良いわね」
 と笑った。
 こうなると、決定事項である。
「でも匂いがなあ……。手、かぶれるし」
 きょとんとした顔で、久美と孝史のやりとりを聞いていた如月に、
「そっか、さらは知らないんだったな」
 孝史が、鎮守の杜で毎年銀杏広いが出来ること、その時期は特有の匂いがすごいことや、幼い頃、素手で触って酷いことになったということを話して聞かせている間に、久美は梨を剥いて食卓に出した。

 風呂から上がったあと、まだ居間にいた泰徳と久美に、おやすみなさいの挨拶を済ませた如月は、縁側で足を止めた。
 煌々と照る、まだ満ちきらぬ月の光に誘われて、ガラス戸を開けると、夜風の匂いが甘い。
 月明かりのもと、庭の金木犀が咲き始めたようだ。
 電気が止められたアパートの部屋から、月に灯りを求めたことを思い出すと、知らず身が震える。
 明日、本当に銀杏拾いに行けるんだろうか。
 もしかしたら。
 想像するだけでも身体が冷たくなるような気がした。
 秋津家に引き取られて約二年、如月が願うことはただひとつだ。
 どうか、お母さんが、迎えに来ませんように。
 かすかな床鳴りに気付いたのか、孝史が自室からひょいと顔を覗かせた。
「今日は旧暦の九月十三日、栗名月だな」
 ああ、だから今日は栗尽くしだったんだなと、改めて月を見上げた。
「ほら、髪、乾かしてやるから、おいで」
 呼ばれるまま、椅子に座った孝史の前に置かれたクッションの上にすとんと腰を下ろした。
 目の粗い櫛で丁寧に梳いてから、ドライヤーで乾かした後、猪毛のブラシで丁寧にブラッシングされるのは、如月のお気に入りの時間だ。
 さっきまで口から零れそうなほど、胸の中を満たしていた不安は、あっけないほど簡単に霧散してしまった。
 機嫌の良い猫のようにうっとりと目を細めているのを見て、顎の下をくすぐってやったら、ごろごろ鳴きそうだなどと、孝史が笑いを堪えていることには気付いていないが、なんとなく、孝史も楽しそうな気配があって、それが如月には嬉しい。
 適当に切りっぱなしで荒れ放題だった髪は、肩を覆うくらいの長さになり、絹糸のような艶とやわらかさを取り戻している。
 となると、いじりたくなるのは人間の性というもので。
 いくら器用な孝史でも、最初は見よう見まねであまりきれいに出来なかったけれども、クラスの女子に指南してもらったらしく、今では三つ編み四つ編み、編み込みでも何でもござれだ。
「よし、おしまい」
 けれど、夢心地の時間は、あっという間だ。
「今日は早く寝ろよ」
 あと少しだけ孝史の部屋にいたくて、本棚にある本を読んでいいかと尋ねるのを制するようにいわれて、
「どうして?」
 如月にしては珍しく、僅かに抵抗した。
 いつもなら、土曜日の夜更かしは黙認してくれるはずなのに。
「明日、銀杏拾いに行くんだろ? 母さん、朝から張り切るだろうから、寝坊なんてしてらんないぞ」
 非常に微妙な表情で言われて、如月は大人しく頷いた。

 まだ紅葉には程遠い公孫樹の下には、山吹色の実が、ころころと落ちている。
「何もこんな朝早くから来なくても……」
 どうしても匂いに慣れないらしい孝史は、眉間に皺を寄せっぱなしだ。
「なにいってんの。これから果肉を取ったりしなくちゃいけないでしょ」
 孝史の言葉通り、久美は朝早くから張り切っていた。
 朝寝が許されているはずの日曜日だというのに、いつも通りの時間に叩き起こされ、朝食を食べ終わった頃には、玄関にビニール手袋に軍手、トング、ビニール袋等一式がトートバッグに用意されていたくらいだ。
 拝殿に参拝した後、『絶対に、直に触ってはいけない』と孝史と久美に重々言い含められた後、境内や参道に落ちている銀杏を拾うのに、如月は直ぐに夢中になった。
 小学五年生にしては小さな手に、やや大き過ぎるトングを持って、山吹色の実を追ううちに、気が付けば鎮守の杜の奥へ足を踏み入れていた。
 朝の光を梢に遮られた杜の中は、しん、と薄暗い。
 どうしよう。
 さっきまで側にいたはずの孝史の姿がないというだけで、どうしていいか分からず足がすくむ。
 落ち着いて考えれば、鎮守の杜と言っても知れた広さだ。そうそう迷子になどならないし、まして秋津の家族が如月を置いて行くはずもない。
 けれど、不意に夕闇の中に放り込まれて、ひとりそこに取り残されたような心細さは、あっという間に如月を支配した。
 ほんの少し歩き出したなら、木立に隠れた本殿が見えるのだが、それにすら気付けなかった。
「孝にい……」
 小さな呟きすら、酷く大きく聞こえて、怖くなった。
 がくがくと膝が震えて、立っているのも辛い。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 混乱が極まる直前。
「さら、そろそろ帰るぞ」
 その声は、覿面に、破裂寸前の不安を萎ませた。
「おー、たくさん拾ったなー」
 がしがしと頭をなでられて、なんだか泣きそうになったのを誤摩化すように、如月は孝史のお腹に顔を埋めてぎゅーっと抱きついた。
「ん、どーした?」
 良かった、ちゃんと、側にいてくれた。
 ほっとする反面、微かの残る不安は胸の奥に沈んでゆく。
「ここは昼間でも薄暗いからな、ちょっと怖かったか?」
 ふるふると首を振る如月に、ほら、と孝史は手を差し伸べた。
「さ、帰ろう。母さんたちも待ってる」
 その手をそっと掴むと、力強く握り返された。
 帰ろう。
 手を繋いで。
 おうちに帰ろう。
(了)


2009.10.24


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