星月夜の森へ/番外編

─ ReWind

昼下がりのような

「お前、名前は?」
 少女の側にかがみ込んで、ぶっきらぼうに孝史は尋ねた。
「きさらぎ。由井如月(ゆい きさらぎ)
 今にも消え入りそうな小声で告げられた名は、どっちが名字で、どっちが名前なんだか分かりにくかった。
「俺は秋津孝史(あきつ たかふみ)
 分かったのか分からないのか、如月はじっと孝史を見ていた。
「二月生まれか」
 如月はまだ涙ぐんだ目のまま、こっくりとうなづいた。

 親戚に不幸があり、彼らの親たちは通夜に出掛けていた。孝史には子守りなどする気などさらさらなく、如月の母親が如月を寝かしつけて行ったとばかり思っていて、全く気にも掛けていなかった。
 そろそろ日付が変わろうかという頃、微かに啜り泣くような声が聞こえた気がして、廊下に出ると、夕方にやたら化粧映えのする女に連れられてやって来た如月が、迷子のように彷徨っていた。
 孝史の家は、十波一絡げの建て売り住宅に比べたら広いが、決して迷子になるようなお屋敷などではない。もとは古い家に建て増ししたりリフォームしたりして成り立って来た、そこそこ広い家、である。そして、孝史の部屋は、廊下でつないだ離れにあった。母屋と離れのあわいには、添水があってもよさそうな、手入れの行き届いた庭がある。
「なんか飲む?」
 部屋に招き入れ、とりあえずベッドに座らせた孝史がそう尋ねると、如月は首を横に振った。途端、ぽろりと涙が零れる。
 母親が恋しくてもしょうがない歳だろうが、親戚の家は交通の便が悪いし、一晩のうちに往復するにはやや遠い。通夜の後は近くのホテルに泊まると言っていたから、今夜は帰って来ない。
 だいたい、孝史が通夜に行かなかったのは如月の子守りをするためではなく、二学期の期末テストがせまっているからだ。去年まではさほど成績を気にしてはいなかったが、中学二年ともなると、そろそろ高校受験の事を気にせずにはいられない。
 ──この子、留守番は慣れてるから、面倒はかけないと思うけど、一応よろしくね、孝史君──
 そういって、あの母親は孝史の両親と共に出かけていった。
 それは、とりもなおさず、しょっちゅう置いてきぼりにして彼女が出掛けているということで、これまでは問題が起きずにすんでいただけの事なのだと悟る。
 娘が寂しさに泣いていようが、空腹に苛まれていようが、お構いなしだったに違いない。それが証拠に、孝史は如月の歳を知って、心底驚いた。
 まだ、小学校に上がる前だと思っていたら、既に小学三年生だと言うのだ。頼りなげに泣いていたから、余計そう思ったのかと言えば、それは違った。むしろ子供らしからぬ辛抱強さで、口を強く引き結び、ひたすら涙を堪えていたのだから。孝史が聞いたのは、堪えきれずに漏れてしまった僅かな咽びだったのだろう。
 孝史が誤解をした理由は至極簡単だ。
 如月は、とても小さく細かった。
 母親の育児放棄が疑われても無理無いほどに。
「ちょっと待ってな」
 そういって部屋から出て行った孝史は十分ほどして戻って来た。
 丸い盆の上には、湯気を立てたマグカップが二つとクッキーの盛られた皿。
「ほら」
 特に愛想もなく、孝史は如月の手にマグカップを持たせた。自分にはビターに、如月には甘めに作ったココアだ。
「熱いから、舌、火傷すんなよ」
 言ってる側から、如月は一口含むなり顔を顰めた。
「ばか、何やってんだよ。こうして、ふーって吹いて、表面を少し冷ますんだ」
 実際に孝史はやってみせた。
 ──熱いものに慣れてないのか?
 もの慣れない様子で、ココアに息を吹きかけて冷ましているのを見ると、そんな疑惑まで湧いて来る。
「クッキーも食べな」
 おそるおそる上目遣いで見上げる如月に、頷いてやると、びくびくとクッキーに手を伸ばした。
 ぽり、と齧る様子は、なかなかに可愛らしい。あの顔だけは飛び切り綺麗な母親の面影がやはりあって、これがあれになるのかと、孝史は想像してしまった。逆に言えば、あの母親にもこんな可愛らしい時があったと言う事だ。
「全部お前のだからな」
 そう言ってしまったのは、なんとなく、如月が夕食を食べていないような気がしたからだ。孝史の両親はいつもより早めに夕食を済ませていたが、あの母親の事だ、夕飯も食べさせずに連れて来ていそうだ、という予想はどうやら当たったらしい。タイミングが良いのか悪いのか、きゅるっと、如月のお腹が鳴った。
「俺はさっき食ったから。遠慮なんかすんな」
 そういっても、時間も時間だったからか、三枚も食べるとそれ以上は口にしなかった。
 気が付けば、既に時計は午前一時を回っていた。
「ほら、もう寝な。部屋分かるか?」
 首を横に振るでもなく縦に振るでもなく、如月は孝史を見上げる。
「どうした?」
 何か言いたげではあったが、すぐに唇を噛んで俯いてしまった。
 ふと、自分が子供の頃、親戚の家に泊まりがけて連れて行かれた時のことを思い出して、孝史はその表情の意味に何となく気付いた。
「ここで寝るか?」
 弾かれたように如月は顔を上げた。
「もう寝よう」
 ぽんぽんと如月の頭をなでて孝史は促す。
 明日は日曜日だから寝坊したところで何の問題も無いが、孝史はさほど宵っ張りな方ではないから、この時間まで起きている事自体、滅多に無い。
 先にベッドの中に潜り込んで、掛け布団の端を上げると、ちょいちょいと夕月を手招いた。
「ほら」
 おずおずと隣に潜り込んで来た如月は、今にも落ちそうなほど端っこに身を寄せていたから、孝明は落ちる心配の無い壁際の方に如月を寝かせて、部屋の灯を消した。しばらくはごそごそ落ち着かず、寝付かれないようだったが、慣れない他人の家で疲れていたのだろう、やがて穏やかな寝息が聞こえて来て、それに誘われるように孝史も眠りに落ちた。
 翌朝、平日と変わらずいつもの起床時間に目覚めた孝史は、傍らの温みを心地良く感じながら、うとうとしていた。そろそろ布団から出るのが億劫になる季節だ。かといって、暖房が必要なほどでもない。その辺りの中途半端さが、余計に億劫に感じるのかも知れない。
 頭まで布団の中に潜り込んでしまっている如月が身じろぎをする。
 起きたわけではなく、温かさを求めてか、孝史の身体の下に潜り込むように身を擦り寄せたのだった。
 その様子が、一昨年大往生した柴犬の小梅に似ていて、思わず笑みを誘われる。小学生の頃は、しょっちゅう縁側で一緒に昼寝をしたものだ。
 初めて連れて来られた家に一人放っておかれて、どれほど心細かっただろう?
 孝史の両親は、如月の母親には全く好意的な感情は持っておらず、一緒に行くのも如月をこの家に置いて行くのも最後まで渋っていたようだった。堅物を絵に描いたような二人が、派手でいかにも享楽的な生き方をしていそうな如月の母親を厭うのは無理も無さそうだと孝史は思う。だから、
「こんな小さな子供、通夜の席に連れて行ったら邪魔なだけでしょう? 一晩泊めてくれれば良いのよ。別に食事の面倒見てくれとか、そんなこと言わないわ。ちゃんと用意して来たし」
 という言葉を、嫌がらせも込めてそのまま受け取り、孝史には特に何も言わなかったに違いない。確かに、如月が持っていたリュックには携帯用栄養機能食品が入っていたが、食べた様子はなかったし、それを食事だといって、他人の家で留守番をさせる母親の神経が、孝史には理解出来なかった。
 この子には何の罪のないのに。
 ふと浮かんだ、ドラマやニュースで当たり前のように耳にする台詞は、あまりに安っぽくて、嫌悪感を覚えた。
 そろそろ起きて朝食の仕度でもしようかと思い始めた頃、もそもそと布団の中から、如月が頭を出した。
 まだちょっと寝ぼけモードで、髪が寝癖で撥ね散らかっている。
「おはよ」
 きょとんとした顔もやはり、小梅を思い出させる。
「顔洗って──って場所分かんないか」
 一人っ子で、年下の面倒など学校行事ぐらいでした見た事の無い孝史は、ようやく、如月が昨晩は入浴もしていない事に気付いた。
「風呂、入りたい?」
 如月は首を横に振る。
 洗面所に連れて行き、如月の母親が押し込めて行った部屋を教えて着替えるようにいうと、孝史はとりあえず朝食の仕度に取りかかった。
 特に家庭の方針で躾けられたと言う訳ではなく、孝史は料理が好きだ。中でも菓子作りが。
 きちんと計量し、適度に混ぜ、適温で熱する。
 理科の実験に似ていて楽しい上に、終了時には美味しいものが残る。これが一石二鳥と言わずしてなんと言う! とまでは思っていないが。
 近くのベーカリーの食パンが残っていたから、それでフレンチトーストを作ることにして、あとはあるだけの野菜でサラダを作る。ドレッシングはもちろん手作りで、母親が通販で取り寄せているエキストラバージンオイルをベースにしているから、香りが良い。
 廊下でまごまごしている如月を呼び寄せて、それらを並べた食卓の椅子に座らせると、予想通り目を丸くして固まっていた。
 自分にはグレープフルーツジュース、如月にはオレンジジュースを出して、朝食を始めたものの、如月はなかなか手を付けようとしなかった。さっき、きちんと手を合わせて「いただきます」と言ったのは、見間違い聞き間違いかと思えるほど、椅子の上で固まっている。
「パン、嫌いだった?」
 仕上げにシナモンパウダーとメイプルシロップを掛けたフレンチトーストは、家族にも評判の良い自慢の一品で、香りからして食欲をそそるだろういう自負があるだけに、ほんの少し声が尖った。それを敏感に感じ取っただろう、如月はびくりと肩を震わせ俯いた。
「卵とか牛乳とか、アレルギーある?」
 俯いたまま、如月ふるふると首を横に振った。
「うーん、昨日の飯の残りならあるから、おじやでも作るか?」
 ぶんぶんと更に首を横に振ると、「……食べるの、もったいなくて」と、蚊の鳴くような声で呟いた。
「食べない方がもったいないよ。ほら、あったかいうちに食べな」
 一体どんな食生活を送らせているのか、帰って来たらあの母親を問いただしたいような気になる。
 半分も食べないうちに、泣きそうな顔で如月は孝史を見上げた。
「どした?」
 何でもないと言うように小さく首を横に振って、如月は冷めてきたフレンチトーストをもそもそと口に運ぶ。
 そういえば。
 昨夜も、お腹が空いていたような割には、クッキーも大して食べなかった事を思い出して、どうやら相当の小食らしい事に思い至った。
「お腹いっぱいなら、無理して食べるなよ。また後で食べれば良いんだから」
 如月はしばらく躊躇った後、おずおずと食べかけのフレンチトーストから手を離し、微かな声で「ごちそうさまでした」と言った。
 ちょうど朝食の片付けを終えた頃、電話が鳴った。
『あ、孝史?』
「母さん? どうかした?」
『あの子、どうしてる? 昨日、あんたに何にも言わずに出掛けちゃったけど……』
「ああ、大丈夫、さっき、一緒に朝飯食った」
『面倒かけるわね、もうすぐ期末テストなのに』
 それは、如月の母親が言うべき台詞だろう、とは思ったが、孝史は何も言葉を返さなかった。
『でね、美雪さん、やっぱり娘が心配だからって、告別式には出ないで帰ったのよ。多分、お昼頃にはつくと思うから、それまでお願いね』
 一応、母親という生き物としては、幾らその親を腹立たしく思っても放っておくのは気が咎めたのだろう。自分たちの帰りは夜になると言って、電話は切れた。
 お昼には、昨夜の残りご飯でチャーハンとスープを、おやつには、如月が残したフレンチトーストでトライフルもどきを作った。孝史が勉強している間、如月は側を離れようとはしなかったが、邪魔をすることもなく、何をしているでも無いのに、少し楽しそうな顔をしていた。
 夕食を食べ、風呂に入れて、午後九時過ぎに孝史の両親が帰宅しても、美雪は姿を表さなかった。
 お母さんはは用事で帰りが明日になったと適当に説明して、如月を寝かしつけた後、
「あの女、最初からそのつもりだったんだわ」
 孝史の母親である久美(くみ)はまさに鬼の形相で激怒した。声量こそ小さいが、地の底から響くような低音に、ビールを飲んでいた父親の泰徳(やすのり)が年甲斐も無く竦み上がって他人事のように横を向いていた。
 通夜振る舞いの席で、分与されるような遺産など無く、実は家屋敷も借金の抵当に入っているらしいという話を聞いて、宛てが外れたのだろうとか、だいたい、小学三年生であの小ささはなんなの、とか、しおらしく最期のお別れがしたいなんて殊勝な顔に騙されたわとか、あなた、鼻の下伸ばしてあの女の顔、こそこそ見てたでしょうとか、およそ方向性の無いことをひと通り零すと、ようやく気も済んだのか、久美はがくんと肩を落とした。
「まったく、あんな小さな子置いて……」
 迷惑ということなのか、可哀想ということなのか計りかねて、孝史はその夜、なかなか眠ることが出来なかった。
 幸いにも、それは杞憂に終わったようで、翌朝、起きて台所へ行くと、食卓で新聞を広げる泰徳の傍らで、如月が久美の指示通りに冷蔵庫から何か出したり皿を並べたりしていた。
「さらちゃん、もう良いわ、座ってなさい」
 ……さらちゃん?
 疑問を口にするより先に、とりあえず「おはようございまーす」と朝の挨拶を済ます。
 新聞から視線を外して、軽く頷いたんだか頷かないんだかの僅かな動作が、泰徳の挨拶はいいつものことだ。小学生の頃は、躾がきちんと出来ない、と久美が毎朝小言を言っていたが、孝史に挨拶の習慣が身に付いたらしいと分かってからは、渋い顔は時折するものの、黙認している。
「ああ、孝史おはよう」
「何、その、さらちゃん、って」
「如月ちゃんって呼びにくいじゃないの」
 あっさり言ってのけ、全員が揃ったところで久美も食卓に着いた。
 孝史も泰徳も、これでしばらく会う事も無いだろうと、今日は美雪が如月を迎えに来るだろうと安穏と考えていて、別れの挨拶をしてそれぞれ会社と学校に向かったのだが、帰宅してみると、酷く居たたまれない顔をした如月が、居間のソファで小さくなっていた。
 夕食を終え、泰徳が仕舞い湯から出て来ると、おやすみの挨拶を済ませて、久美は如月を客間に寝かしつけた。
 さっきまでの優しげな笑みは何処へやら、憤怒の形相で居間に戻って来ると、
「一応ね、さらちゃんから聞いた住所までは一緒に行ったのよ」
 昼間の出来事を、話したくてたまらなかったのだろう。ビールの用意もそこそこに久美はまくしたて始めた。期末テストの事が頭を過ったが、とりあえずこちらの事情をある程度の見込まない限りは落ち着いて試験勉強が出来そうになく、孝史もソファのいつもの場所に陣取った。
 思い当たる、といってもほんの数件だが、電話で美雪の所在を尋ねてみたものの、全くの徒労に終わり、その後、車でおよそ一時間ほどの所にある、古い木造アパートの一室を訪れた。郵便受けにはダイレクトメールや投げ込みチラシが溜まっており、美雪が帰って来た様子は無かった。如月が持っていた鍵で中に入ってみても、それは同じで、2Kのこじんまりとした部屋は、片付いていると言うよりは、物が少なく、不思議と母子が暮らしているという印象が薄かった。
 母親がいつ帰って来るかも分からない家に、如月一人置いてくる訳にはいかない。
 手の行き届いていない室内に、むくりと頭をもたげた主婦魂を押さえつけ、とりあえず如月の着替えを数日分カバンに入れて帰って来たのだという。
「だからね、しばらく、さらちゃんのこと、うちで預かろうと思うの」
「だからねって、学校とか……その……、いろいろ、どうするんだ」
 泰徳はさすがに渋い顔をする。
「とりあえず数日くらいはいいでしょ。それからのことは、その時考えれば良いわ」
「だけど、美雪さんにはなんに義理も無いだろう」
「義理も何も、会ったのは一昨日が初めてよ」
 久美の母親と美雪の父親が姉弟だから、血縁としては従姉妹になるのだが、美雪の母親は久美たちの父親の後妻に納まっており、戸籍上、美雪は久美の叔母になるのだ。この度亡くなったのは誰かというと、美雪の義理の父親であり久美の祖父にあたる。久美の母親が、女にだらしのない父親と弟を酷く嫌っていたこともあって、母方の親類とは自然と疎遠になっていたから、久美の母親が愚痴の中で、何度か美雪の名を出していなかったらその存在すら知らずにいただろう。だから、どこから調べて来たのか、のこのこと美雪が子連れで現れたのは、想像の埒外だったらしい。
「なんでも、美雪さんの両親が離婚したのは、彼女が生まれてすぐだったんですって。母は弟が結婚したのも知らなかったから、美雪さんが生まれたのも当然知らなくて……」
 年老いた父親が、ある日、若い女と再婚する。しかも連れ子付き。いきなり、血の繋がりの無い妹が出来たと言われても、既に結婚していた久美の母は、一緒に住むでもなし、大した問題では無いと思われたが、事態はそんな単純な事ではなかった、というわけだ。
「事情が複雑なのは分かったけど、この子をうちで面倒を見るのとは話が違うだろう」
「違うわね。でも、良いじゃない。女の子、欲しかったのよ」
「犬や猫の子じゃないんだぞ!」
 さすがに泰徳は声を荒げた。
「犬や猫の子じゃないから、うちで預かろうって言ってるのよ!」
 負けじと久美の声も高くなった。
 今にも爆発しそうな雰囲気に水を差したのは、
「あ」
 という、孝史の小さなつぶやきだった。
 ガラス障子に、小さな影が映っていた。
「声が大きいから、さらが起きちゃったんだよ」
 そう咎めて、孝史が立ち上がり、ガラス障子を引くと、廊下で如月が俯いて立ち竦んでいた。
「さら? どうした?」
 傍らにしゃがんで目線を合わせると、なんでもないとばかりに首を横に振る。
「もう寝よう。おいで」
 孝史はさらと手を繋いだ。
「じゃ、おやすみなさい」
 如月も、ぺこんと頭を下げた。
 仲の良い兄妹のように行ってしまうのを待って、泰徳は口を開いた。
「美雪さんが迎えに来なかったらどうするんだ」
「それは……その時考えるわよって、さっきも言ったじゃない」
「その時じゃ遅い。孝史だって、たった二日や三日で情に絆されてる。お前までそんな事言い出してどうするんだ。扶養家族が一人増えるっていうのは、どういうことか分かってるのか」
「分かってるわよ。子供一人育てるのに、どれだけ掛かるか、結婚前にシミュレーションして、子供は三人欲しいねって話したの、忘れたの?」
 それが叶わなかったのは、久美が掛かった病故だ。幸い発見が早かったから命に関わるような事にはならなかったが。
「……そんな話をしているんじゃないだろう」
「そうね」
「最初に言っておく。数日預かるのは反対しない。が、それだけだ」
「それだけって……。ねえ、さらちゃん、もう小学三年生なのよ。なのに、あんなに小さくて」
「可哀想だから、うちで面倒をみようと? 何度も言うが、犬や猫の子じゃない。同情ではやっていけないんだよ」
「だけど」
「やめよう。このまま話していても堂々巡りだ」
 引きちぎるように話を終わらせて、泰徳は立ち上がった。
 翌々日から期末テストが始まった孝史を慮ってか、しばらくは如月をどうするかについて話されることは無かった。泰徳もわざわざ冷たく当たるような大人げないマネはしなかったし、久美も可愛がりはしたがそれなりの距離を持って接していた。
 客間に一人で眠る事が怖いことを黙っている如月を、孝史が自分の部屋に寝かせている事に、二人が何も言わなかったのは、年下の世話などした事の無い一人っ子の息子が、ただでさえ忙しないテスト期間中にも関わらず、きちんと面倒見ているのが微笑ましかったのと、有り得たはずの風景を目にして、思うところがあったのだろう。
 けれども、と言うべきか、やはりと言うべきか。
 数日どころか、孝史の期末テストの結果が出る頃になっても、美雪は如月を迎えに来なかった。
 何度か訪れた如月の自宅アパートに、美雪が帰って来たよう痕跡は欠片も無く、郵便受けにはダイレクトメールやチラシが溜まる一方だった。
 とりあえず警察には母親の失踪を届け出た。この後、のこのこ姿を表せば扶養義務を放棄したとして、何らかの罰則は免れまい。そのまま児童保護施設に預ける事も出来たが、久美だけでなく、
「さらを育てるのに、お金がかかるっていうなら、俺が高校も大学も国公立に絞ればなんとかなるだろ」
 と、孝史にそこまで言われては、さすがに家長たる泰徳も折れた。
 このあたりではそれなりに名の通った私立高校へ進学し、エスカレーター式で大学に進むという予定をあっさりと覆されるとは思わなかったのだ。息子の能力をそれなりに評価していて、物足りなさを感じていた泰徳としては、動機はともかく、否やと言う理由がない。
 美雪が姿を消した一ヶ月後、家庭裁判所に泰徳が後見人になる申し立てをし、受理された。
 その過程で分かったのは、如月は非嫡出子で認知もされていないということや、美雪は週に何度も家を空けていたこと、如月は学校を休みがちだったことなどで、およそ幸せな子供ではなかったらしいという事実だった。
 もちろん、夕月を引き取るにあたって問題が無かった訳ではない。ことに久美の母親の反対は凄まじく、昼頃に電話で事の次第を聞くや、その日の夕方に秋津家まで乗り込んで怒鳴り散らしていった。ひと言も無く子供を置き去りにするような女の子供なんか、性根も行く末も知れている、と。
 転校の手続きなどが済ませ、二月から通うようになって浮上した問題もあった。
「さすがにこれは、まずいわよねえ」
 三学期が終わり、担任の教師から注意の連絡もあったのだが、如月の成績は、酷かった。
 まず、どうやら漢字がろくに読めていないらしい。そのせいで、どの教科も惨憺たる有様だ。図画工作と体育はなんとか標準なのが僅かな救いだと言って良いのかどうか。いくら休みがちだとはいえ、前の小学校の担任は何をやっていなかったのか、それとも美雪が何もさせなかったのかは不明だが、放っておける事態ではなかった。
「いいよ、俺が教える」
 如月の通知表を見て、深々と溜め息を付く久美に、こともなげに言った孝史の方は、父親に啖呵を切っただけあって、三学期の成績はぐんと伸びていた。
「とりあえず、字が読めなきゃ話になんないよね。それから、算数か。もうすぐ分数も出てきて引っ掛かるんだよな」
「……あんた、出来るの?」
「母さんだって、字くらい教えられるだろ」
「そりゃあそうだけど……」
「春休みは、午前中は部活に行くから、午後から算数とか教えるよ。それでいいよな、さら?」
 三食をきちんと採るようになって、折れそうなほどの細さではなくなったものの、小学校三年生の平均標準値には身長も体重もまだまだ足りていない如月は、嬉しそうに頷いた。
「とりあえず、さらでも読めそうな本、図書館で借りて来るよ。一緒に行くか?」
 そうして、一人では自転車に乗れない如月を後ろに載せて、図書館までの二キロの道のりをゆっくりと自転車で通うのが、孝史の春休みの日課になった。
 一度で直ぐに覚えられるような器用さは無くても、勉強を厭うようなことは無かったし、分からないと言うところを、もう一度丁寧に説明してやれば、大丈夫なだけの聡明さを如月は持っていた。孝史の居ない時は、気の付く限り、何か手伝えることはないかと久美の側にいて、少しずつ秋津家に馴染んでいった。
 秋津家で暮らすようになってほどなく、納戸代わりに使われていた四畳間を如月は私室として宛てがわれ、四年生になって、ようやくひとりで寝起きも出来るようになった。  それでも、時々、夜中に如月は廊下を彷徨っている。
 その度に、孝史は厭うこと無く如月を抱きしめて、眠るまで髪をなでてやっていた。

 三年余りが経ち、如月は中学生になった。
 秋津家に住んでいるのに名字が由井であることや、親たちの口さがない噂話の影響でなどばかりでなく、如月自身が口べたで人見知りなこともあって、虐められたりもしたが、概ね無難に小学校は乗り切った。
 身長も随分伸びて、前から数えて五番目くらいになり、体つきは細いままだが、もう病的なほどではない。
 如月が中学校に上がる前の年末に、泰徳は如月を養子にするかどうかという話を持ち出した。名字を変えるなら、ちょうどいいタイミングだとかなんとか、言い訳をしながら。けれど、久美は今更だからいいと、如月の意向を尋ねる事無く、その話を蹴飛ばした。
 正月早々、不機嫌の極みで焼酎をちびちびやっていた泰徳に、久美はあっけらかんと言ってのけた。
「良いのよ、そのうち、さらちゃんはお嫁に来るんだから」
 泰徳に付き合って、焼酎を舐めていた孝史も咽せた。
 そんな話は聞いた事も無い。
 如月も同様で、それこそ鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、蜜柑の皮を剥きかけたまま、固まっていた。

 その話は、孝史が予定通り地元では抜きん出た偏差値を誇る市立高校を卒業し、国立大学に合格した後も、宙ぶらりんになっている。久美も蒸し返したことは無い。
 スポーツも勉強もそつなくこなす孝史は、バレンタインデーに本命と思われるチョコレートを幾つか贈られる程度には、見目も性格も悪くないし、彼女がいたこともある。
 孝史に自覚が有るかどうかはともかくとして、如月を溺愛していることは周知の事実で、早々に振られることになるのだが。だいたい、付き合っている彼女の誕生日より、如月とのささいな約束の方を優先させているのだから当たり前だ。
 故に穏やかならざる感情を持つ女子もいないではなかったが、それを如月に向けようものなら、孝史は口をきかないどころか目も合わさなくなるという真しやかな噂と、いざ目の前にした如月の余りの幼さが強固な盾となっていた。
 けれど、その盾にヒビが入り始めている。
 まだ羽化の途中で、殻から抜け出しても、まだしわくちゃな羽を美しく広げるまでには時間が掛かるだろうけれど。
 美雪が迎えにくる日を待っているのか、恐れているのか、孝史自身、よく分からない。
 ただ、この日々が続けばと、祈りにも似た気持ちがあることは確かだった。
 昼下がりの微睡みが醒めるその日まで、如月が幸せであるようにと。
(了)
2008.05.31


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