星月夜の森へ/番外編
── Redundancy
ヴィスタリア
周囲は炎に包まれていた。
王の間をそれと知らしめる為に施された豪奢な装飾、熟練した職人たちが掛けた手間と情熱など、素知らぬ顔で焼き尽くしてゆく。
「フィリア、わたしのフィリア……」
王座に縋り付く青年の頭上にあった王冠は、その足許に転がっていた。
クレイアナ山脈に生息すると希少なティシュトリヤの毛皮を贅沢にあしらったマントも、煤にまみれて薄汚れ、端は焦げて哀れなものと成り果てている。
「フィリア、わたしの……」
弱々しげに、腕が伸ばされる。
あれほど自信に満ちていた瞳は絶望に染まり、ただひたすらに助けを求めていた。
「わたしの……」
凛々しい体躯、華やかなかんばせ、お伽話のように美しい王子様。
「……女神」
目の前で天井が崩れ落ち、彼の姿を覆い尽くした。
「フィリア」
身体を揺すられて、彼女は目を覚ました。
傍らには眉を顰めたアリューシャの姿があった。
「魘されていた」
「……あの夢を、見てしまいましたの」
「そう」
「……夢ではありませんわね、あれは、現実に起きたこと……」
アリューシャは答えなかった。
窓の外は、光に溢れている。
朝から降っていた春の雨は、うとうとしているうちに上がっていた。
しっとりとした温もりのある森の湿気に、つい先日まで過ごした草原の乾いた空気を思い出す。
蒼穹の下、何処までも広がる緑の草原。
それが具現化したような、風雲児。
ここからアズフィリアを連れ出した男。
──彼であったなら。
そう思いかけて、アズフィリアは軽く頭を振った。
はらりと髪が顔に掛かり、知らず自嘲が漏れる。
かつては陽光を思わせる金色が、今は己の罪を忘れるなと、咎人の烙印とばかりに黒い。
ヴィスタリアは、異能の一族だ。
いつ神の祝福を受け、その力を手に入れたのかは定かではない。
分かっているのは、ツァルト国がマゼリアと言う名の国であった頃に、この世の理を乱さぬため、その力は秘することを約定とし、代わりに当時のマゼリア女王からヴィスタリアの姓と小さな領地を賜ったこと、そして、未来視の力をを維持してゆく為に近親婚を繰り返し、時に外の血を入れたりしながら、ゆっくりとゆっくりと滅びの道を辿っているということだ。
ヴィスタリア三家のうち、ベリディグリ家が早々に未来視の力を失くし、次いでカーマイン家にも力を持つ子が生まれなくなって久しい。
主家であるセレスタ家に生まれたアリューシャは、僅かな感応力を持つだけだったが、妹のアズフィリアは始祖の生まれ変わりかというほどに、強い力を持っていた。その為に、周囲は当然のようにアズフィリアに傅いた。
それが、恐らく間違いだったのだ。
カーマイン家にアリューシャと同じ年、ひと月違いにに生まれたのがクリシュナだ。アズフィリアの誕生と同時に、彼女の婚約者として定められた。
夢見がちな少女であったアズフィリアは、それを酷く厭った。
クリシュナが嫌いだったのではなく、もとから定められた相手というのが、気に入らなかったのだ。
お伽話に出てくるような、初めて出会ったときに胸が高鳴り、この人だと確信しうるような、そんなものを求めていたのだった。
その頃には、アリューシャは王都にある王立学問所に入学してヴィスタリア領を離れており、年に一度も帰って来なかった。蔑ろにされるというほどではないにしろ、いてもいなくて構わないような場所に身を置くのは、やはり居心地が悪かったからだ。
一方、アズフィリアの方は、王都に行けば華やかな生活が出来ると思い込んでいる節があり、降りに触れて送られてくる手紙には、王都で暮らす姉への羨望が綴られていた。それを、本家の館とは比べるべくもない粗末な学問所の寮で、アリューシャは苦笑しながら読んでいたのである。
全てのきっかけとなった王家主催の園遊会が行われたのは、アリューシャが王立学問所に入学して四年目、十八歳のことだった。
幾ら田舎に引き蘢る貴族と言えど、数年に一度行われる王家主催のそれを欠席するわけにはいかない。当初は王都で暮らすアリューシャを名代にという話も出たのだが、十四を過ぎ、社交界へのお披露目が許される歳になっていたアズフィリアの強い望みで、父であるウェイトと共に王都へとやって来た。
王家への献上品、身を飾る衣装や装飾品の他、ひと月ほどの滞在になるため、都内の屋敷を借り上げてのことになり、弱小貴族には酷く憂鬱な催しだが、狭いが豊穣な土地を有するヴィスタリアにとっては、さしたる出費ではない。
アズフィリアは、園遊会が開かれる期日よりも二ヶ月も早く来て、有力貴族が催す舞踏会などにも伝手を使って頻繁にその姿を見せていた。
春の空を映したような蒼の瞳、光を融かしたような淡い金の髪。咲き初めた花を思わせる唇、そこから零れるのは小鳥のさえずりのような甘く澄んだ声。清楚なドレスに包まれた華奢な身体。
いずこの令嬢であろうかと噂になるのは時間は掛からなかった。
それが、王子の耳に届くのも。
王子ディリオンは、実に美しい器を持っていた。
貴族も市井の者も、少女であれば一度は夢見るお伽話の王子をそのまま具現化したような、それはそれは素晴らしい外見を、神は彼に与えたのだ。
幼少時より剣の鍛錬を好んでいたために、見事に鍛え上げられた長身は威圧感さえあったが、あまやかな顔立ちがそれを和らげ、周囲には常に人が絶えなかった。やや勉学を厭うきらいはあったものの、素直な性格をしており、他者の意見に耳を傾けるという美徳を持っていたから、次代も安泰だと誰もが思っていた。
いつからだろう、彼に猜疑心が生まれたのは。
弟王子マルティンが、彼とはあまりに対照的であったからだろうか。
それとも。
園遊会で声を掛けたアズフィリアは、噂に聞く以上の少女であった。
彼らにとって、これまで接して来た女たちとは全く違う、媚もへつらいもない、無垢な存在として、深く胸に刻まれた。
しかし、アズフィリアがヴィスタリア一族の者であると知った父王は、彼女と親しくすることを許さなかった。その理由は宰相から告げられた。
ごく一部の者しか知らされない、ヴィスタリアの異能とその危うさゆえに交わされた約定についてを。
それは、滅びたマゼリア国から受け継いだ、数少ないものだ。
保護すべき一族であって、手に入れようとしてはならない。
それを正しく理解したのは、マルティンだけだった。
アリューシャが王立学問所を卒業し、ヴィスタリア領には帰らず城で文官として勤めるようになるころには、アズフィリアは頻繁に王都を訪れるようになっていた。
有力貴族から舞踏会への招待状は引きも切らず、貢ぎ物も絶えなかった。
それは、王子ディリオンの寵愛を受けるものとして広く認知されていたからだ。
身近な者の反対を押し切って、ディリオンはアズフィリアを妃にと考えており、王室内で孤立しつつある事実を周囲は気付かずにいたのは、不幸なことだった。
特に弟王子のマルティンが諌めようものなら、アズフィリアを横取りするつもりか、それとも時分が手に入れられない腹いせに兄の邪魔をしようとしていると邪推する有様だった。
どうすれば、意のままにことを動かせるのか。
ディリオンは己の力を誇示することが出来ればといいと単純に考え、行き着いたのは隣国への侵攻だった。
国境を巡っての小競り合いはすでに百年を越え、近年では隣国の盗賊による隊商の襲撃が問題になっていたとはいえ、拮抗する両国が争いを始めれば無傷では済まないどころか自国に益をもたらすとも限らない。けれど、手の内には未来視の力を持つ少女がいることで、彼は圧倒的な勝利を確信するにまで至っていたのだった。
さすがにそれは、王が強硬に反対の姿勢を見せた為にすぐに実行に移されることはなかったが、燻っていた火種が勢いを得たことは確かだった。
やがて、アズフィリアに固執する頑なディリオンに、父王は見切りを付けるべきかと考え始めるようになった。幸いにも、弟王子マルティンは外見こそ見栄えはしないが、聡明な青年に育っており、一方、華やかな外見と朗らかな性格が相俟って誰からも愛され、助言する人間にも恵まれていたディリオンは、信望を失いつつあったからだ。
が、それを取り沙汰する前に王は心労を重ねて急逝してしまった。
ディリオンは即位すると、最初に宰相の首を刎ねた。
もう彼を止めるものはいない。
そうして隣国への侵攻が始まった。
常にディリオンの傍らに置かれるようになったアズフィリアは、未来視の力を存分に発揮し、戦局は常に優位を保ち続けた。が、不思議なことに、決定的な打撃を与えることが出来ないままに戦いは長期化の様相を見せていた。
ある程度の譲歩を引き出し早めに手を引くべきだという声が高まる中、ディリオンは完全なる勝利を求め、民に重税をかけることさえしようとしたことが、切り捨てられる決定的な要因となった。
ディリオンを最初に見放したのは文官たちであり、最後まで支持したのは武官たちであったことが、その事態を招いたとも言えるだろう。
幾ら未来が見えていても、離れた人心は戻らない。
軍の分裂と同時に内戦が勃発し、立ち上がったマルティンが破格の条件を提示して隣国と講和条約を結んだことで、疲弊していた民たちの支持は一気にマルティン側に傾いた。
それでも数に勝るディリオン側を攻め落としあぐねていたが、季節外れの嵐の襲来に乗じた奇襲によって重要拠点となる都市を陥落したことを皮切りに、遂に王城にまで攻め上げるに至ったのだった。
夜陰の中で、燃え盛る王城は遥か彼方からも見えたと言う。
王の間であった場所に横たわる遺体はが誰の者か、確かめるすべなどあるはずもなく、ディリオンの行方は不明ということで処理された。
ヴィスタリア一族には、なんら処罰はなかった。
それに異議を唱える者がほとんどいなかったのは、ごく一部の人間を除けば、アズフィリアはただディリオンの身勝手に振り回された哀れな妃候補でしかなかったからだ。彼の、自分だけの秘密の宝だとしてアズフィリアの力を周囲に吹聴しなかった子供っぽさが、彼女が属する一族を救ったのだった。
だから、ヴィスタリア一族に、重い贖罪が課されたことを、彼等自身以外に知る者はいない。
未来視の力によってもたらされた世界の歪みが正される日まで、このウェルディネヴァを見守ること。
それまで、長い長い時間の牢獄に閉じ込められることとなったことなど。
「……力など、欲したことなどありませんのに」
──神などなんと自分勝手な。
アズフィリアは思う。
ただ、恋い焦がれた男に、盲目的に従っただけだ。
そして、彼は愚かだった。
それを見抜けぬ自分が、さらに輪を掛けて愚かであったのだと気付くには、あまりに心は幼な過ぎた。
どのみち、恋などというのは気紛れな小鳥のようなもので、心も行く末も思い通りにいくばずもなかったのだが。
「全ての不幸は、神があたしに力を与えたこと……」
未来視のちからさえなければ、ヴィスタリアに生まれつかなければ。
現から逃げるように窓の外に目を向けたアズフィリアを、アリューシャはあっさりと引き戻した。
「彼が生まれながらに王子であったように、わたしたちは生まれながらに特異の血を引くヴィスタリアだ。それは、鳥が鳥であることと、なんら違いはない」
それは、諦念といったものでは決してなく、そうある自身の存在をあるがままに受け止め認めているからこその、真実を告げる言葉だった。
「なぜわざわざ贖罪の時間を長引かせるようなことをする?」
アリューシャには、粛々と贖いが終わる日を待つべきところを、静かな水面に小石を投げ入れるようなことをする気持がわからない。
神の理など、どう足掻いたところで覆せるものではないからだ。
「……神に復讐したいのかもしれません。姉様のおっしゃることも、分かってはいるのです。けれど、与えられた力を思うがままに振るうことを罪とするなら、何故こんな力をお与えになるのでしょう。自制心をお試しにでもなっていらっしゃるのかしら。そうやって、神はひとを玩具にしているように」
「フィリア!」
「お見捨てくださって構いませんのに。番人はひとりで充分」
鋭い声に遮られても、アズフィリアは微笑さえ湛えて言い放った。
望めば、アリューシャとクリシュナはいつでも流れゆく時の中へ還って行ける。が、彼等はアズフィリアひとりの背に、罪を負わせるのを佳しとしなかった。
アズフィリアの手を掴み、なんとかあの事態を避ける術はあったのではないかと、もしヴィスタリア本家を離れてさえいなければ、と悔いていたからだ。
妹を疎む気持こそ薄かったが、自分を余りに軽んずる周囲の状況をすんなり受け入れるには自尊心が高過ぎた。少しでも自分を認められるために、王城に勤めるようになったともいえる。
そして、幼い頃から婚約者など決められて、拗ねた気分であったのは、何もアズフィリアだけでなく、クリシュナも同様だった。それでも最終的には一族の総意に逆らえるわけもないと分かっていた。すっかり開き直って遊び倒しているうちに、離れ難い女性と出会い、なんとかヴィスタリアの軛から逃れられないかと考えているところに、起きたのがアズフィリアの一件だ。
自分には関係ないと突っぱねてしまうには、血は余りに濃かった。
「こんな世界など滅んでしまえばいいのです。所詮神の箱庭。いかようにも作り直して、新たに作るのでしょうから」
まるで、自身がこの世界を司る女神であるかのように、フィリアは婉然と微笑んだ。
王の間をそれと知らしめる為に施された豪奢な装飾、熟練した職人たちが掛けた手間と情熱など、素知らぬ顔で焼き尽くしてゆく。
「フィリア、わたしのフィリア……」
王座に縋り付く青年の頭上にあった王冠は、その足許に転がっていた。
クレイアナ山脈に生息すると希少なティシュトリヤの毛皮を贅沢にあしらったマントも、煤にまみれて薄汚れ、端は焦げて哀れなものと成り果てている。
「フィリア、わたしの……」
弱々しげに、腕が伸ばされる。
あれほど自信に満ちていた瞳は絶望に染まり、ただひたすらに助けを求めていた。
「わたしの……」
凛々しい体躯、華やかなかんばせ、お伽話のように美しい王子様。
「……女神」
目の前で天井が崩れ落ち、彼の姿を覆い尽くした。
「フィリア」
身体を揺すられて、彼女は目を覚ました。
傍らには眉を顰めたアリューシャの姿があった。
「魘されていた」
「……あの夢を、見てしまいましたの」
「そう」
「……夢ではありませんわね、あれは、現実に起きたこと……」
アリューシャは答えなかった。
窓の外は、光に溢れている。
朝から降っていた春の雨は、うとうとしているうちに上がっていた。
しっとりとした温もりのある森の湿気に、つい先日まで過ごした草原の乾いた空気を思い出す。
蒼穹の下、何処までも広がる緑の草原。
それが具現化したような、風雲児。
ここからアズフィリアを連れ出した男。
──彼であったなら。
そう思いかけて、アズフィリアは軽く頭を振った。
はらりと髪が顔に掛かり、知らず自嘲が漏れる。
かつては陽光を思わせる金色が、今は己の罪を忘れるなと、咎人の烙印とばかりに黒い。
ヴィスタリアは、異能の一族だ。
いつ神の祝福を受け、その力を手に入れたのかは定かではない。
分かっているのは、ツァルト国がマゼリアと言う名の国であった頃に、この世の理を乱さぬため、その力は秘することを約定とし、代わりに当時のマゼリア女王からヴィスタリアの姓と小さな領地を賜ったこと、そして、未来視の力をを維持してゆく為に近親婚を繰り返し、時に外の血を入れたりしながら、ゆっくりとゆっくりと滅びの道を辿っているということだ。
ヴィスタリア三家のうち、ベリディグリ家が早々に未来視の力を失くし、次いでカーマイン家にも力を持つ子が生まれなくなって久しい。
主家であるセレスタ家に生まれたアリューシャは、僅かな感応力を持つだけだったが、妹のアズフィリアは始祖の生まれ変わりかというほどに、強い力を持っていた。その為に、周囲は当然のようにアズフィリアに傅いた。
それが、恐らく間違いだったのだ。
カーマイン家にアリューシャと同じ年、ひと月違いにに生まれたのがクリシュナだ。アズフィリアの誕生と同時に、彼女の婚約者として定められた。
夢見がちな少女であったアズフィリアは、それを酷く厭った。
クリシュナが嫌いだったのではなく、もとから定められた相手というのが、気に入らなかったのだ。
お伽話に出てくるような、初めて出会ったときに胸が高鳴り、この人だと確信しうるような、そんなものを求めていたのだった。
その頃には、アリューシャは王都にある王立学問所に入学してヴィスタリア領を離れており、年に一度も帰って来なかった。蔑ろにされるというほどではないにしろ、いてもいなくて構わないような場所に身を置くのは、やはり居心地が悪かったからだ。
一方、アズフィリアの方は、王都に行けば華やかな生活が出来ると思い込んでいる節があり、降りに触れて送られてくる手紙には、王都で暮らす姉への羨望が綴られていた。それを、本家の館とは比べるべくもない粗末な学問所の寮で、アリューシャは苦笑しながら読んでいたのである。
全てのきっかけとなった王家主催の園遊会が行われたのは、アリューシャが王立学問所に入学して四年目、十八歳のことだった。
幾ら田舎に引き蘢る貴族と言えど、数年に一度行われる王家主催のそれを欠席するわけにはいかない。当初は王都で暮らすアリューシャを名代にという話も出たのだが、十四を過ぎ、社交界へのお披露目が許される歳になっていたアズフィリアの強い望みで、父であるウェイトと共に王都へとやって来た。
王家への献上品、身を飾る衣装や装飾品の他、ひと月ほどの滞在になるため、都内の屋敷を借り上げてのことになり、弱小貴族には酷く憂鬱な催しだが、狭いが豊穣な土地を有するヴィスタリアにとっては、さしたる出費ではない。
アズフィリアは、園遊会が開かれる期日よりも二ヶ月も早く来て、有力貴族が催す舞踏会などにも伝手を使って頻繁にその姿を見せていた。
春の空を映したような蒼の瞳、光を融かしたような淡い金の髪。咲き初めた花を思わせる唇、そこから零れるのは小鳥のさえずりのような甘く澄んだ声。清楚なドレスに包まれた華奢な身体。
いずこの令嬢であろうかと噂になるのは時間は掛からなかった。
それが、王子の耳に届くのも。
王子ディリオンは、実に美しい器を持っていた。
貴族も市井の者も、少女であれば一度は夢見るお伽話の王子をそのまま具現化したような、それはそれは素晴らしい外見を、神は彼に与えたのだ。
幼少時より剣の鍛錬を好んでいたために、見事に鍛え上げられた長身は威圧感さえあったが、あまやかな顔立ちがそれを和らげ、周囲には常に人が絶えなかった。やや勉学を厭うきらいはあったものの、素直な性格をしており、他者の意見に耳を傾けるという美徳を持っていたから、次代も安泰だと誰もが思っていた。
いつからだろう、彼に猜疑心が生まれたのは。
弟王子マルティンが、彼とはあまりに対照的であったからだろうか。
それとも。
園遊会で声を掛けたアズフィリアは、噂に聞く以上の少女であった。
彼らにとって、これまで接して来た女たちとは全く違う、媚もへつらいもない、無垢な存在として、深く胸に刻まれた。
しかし、アズフィリアがヴィスタリア一族の者であると知った父王は、彼女と親しくすることを許さなかった。その理由は宰相から告げられた。
ごく一部の者しか知らされない、ヴィスタリアの異能とその危うさゆえに交わされた約定についてを。
それは、滅びたマゼリア国から受け継いだ、数少ないものだ。
保護すべき一族であって、手に入れようとしてはならない。
それを正しく理解したのは、マルティンだけだった。
アリューシャが王立学問所を卒業し、ヴィスタリア領には帰らず城で文官として勤めるようになるころには、アズフィリアは頻繁に王都を訪れるようになっていた。
有力貴族から舞踏会への招待状は引きも切らず、貢ぎ物も絶えなかった。
それは、王子ディリオンの寵愛を受けるものとして広く認知されていたからだ。
身近な者の反対を押し切って、ディリオンはアズフィリアを妃にと考えており、王室内で孤立しつつある事実を周囲は気付かずにいたのは、不幸なことだった。
特に弟王子のマルティンが諌めようものなら、アズフィリアを横取りするつもりか、それとも時分が手に入れられない腹いせに兄の邪魔をしようとしていると邪推する有様だった。
どうすれば、意のままにことを動かせるのか。
ディリオンは己の力を誇示することが出来ればといいと単純に考え、行き着いたのは隣国への侵攻だった。
国境を巡っての小競り合いはすでに百年を越え、近年では隣国の盗賊による隊商の襲撃が問題になっていたとはいえ、拮抗する両国が争いを始めれば無傷では済まないどころか自国に益をもたらすとも限らない。けれど、手の内には未来視の力を持つ少女がいることで、彼は圧倒的な勝利を確信するにまで至っていたのだった。
さすがにそれは、王が強硬に反対の姿勢を見せた為にすぐに実行に移されることはなかったが、燻っていた火種が勢いを得たことは確かだった。
やがて、アズフィリアに固執する頑なディリオンに、父王は見切りを付けるべきかと考え始めるようになった。幸いにも、弟王子マルティンは外見こそ見栄えはしないが、聡明な青年に育っており、一方、華やかな外見と朗らかな性格が相俟って誰からも愛され、助言する人間にも恵まれていたディリオンは、信望を失いつつあったからだ。
が、それを取り沙汰する前に王は心労を重ねて急逝してしまった。
ディリオンは即位すると、最初に宰相の首を刎ねた。
もう彼を止めるものはいない。
そうして隣国への侵攻が始まった。
常にディリオンの傍らに置かれるようになったアズフィリアは、未来視の力を存分に発揮し、戦局は常に優位を保ち続けた。が、不思議なことに、決定的な打撃を与えることが出来ないままに戦いは長期化の様相を見せていた。
ある程度の譲歩を引き出し早めに手を引くべきだという声が高まる中、ディリオンは完全なる勝利を求め、民に重税をかけることさえしようとしたことが、切り捨てられる決定的な要因となった。
ディリオンを最初に見放したのは文官たちであり、最後まで支持したのは武官たちであったことが、その事態を招いたとも言えるだろう。
幾ら未来が見えていても、離れた人心は戻らない。
軍の分裂と同時に内戦が勃発し、立ち上がったマルティンが破格の条件を提示して隣国と講和条約を結んだことで、疲弊していた民たちの支持は一気にマルティン側に傾いた。
それでも数に勝るディリオン側を攻め落としあぐねていたが、季節外れの嵐の襲来に乗じた奇襲によって重要拠点となる都市を陥落したことを皮切りに、遂に王城にまで攻め上げるに至ったのだった。
夜陰の中で、燃え盛る王城は遥か彼方からも見えたと言う。
王の間であった場所に横たわる遺体はが誰の者か、確かめるすべなどあるはずもなく、ディリオンの行方は不明ということで処理された。
ヴィスタリア一族には、なんら処罰はなかった。
それに異議を唱える者がほとんどいなかったのは、ごく一部の人間を除けば、アズフィリアはただディリオンの身勝手に振り回された哀れな妃候補でしかなかったからだ。彼の、自分だけの秘密の宝だとしてアズフィリアの力を周囲に吹聴しなかった子供っぽさが、彼女が属する一族を救ったのだった。
だから、ヴィスタリア一族に、重い贖罪が課されたことを、彼等自身以外に知る者はいない。
未来視の力によってもたらされた世界の歪みが正される日まで、このウェルディネヴァを見守ること。
それまで、長い長い時間の牢獄に閉じ込められることとなったことなど。
「……力など、欲したことなどありませんのに」
──神などなんと自分勝手な。
アズフィリアは思う。
ただ、恋い焦がれた男に、盲目的に従っただけだ。
そして、彼は愚かだった。
それを見抜けぬ自分が、さらに輪を掛けて愚かであったのだと気付くには、あまりに心は幼な過ぎた。
どのみち、恋などというのは気紛れな小鳥のようなもので、心も行く末も思い通りにいくばずもなかったのだが。
「全ての不幸は、神があたしに力を与えたこと……」
未来視のちからさえなければ、ヴィスタリアに生まれつかなければ。
現から逃げるように窓の外に目を向けたアズフィリアを、アリューシャはあっさりと引き戻した。
「彼が生まれながらに王子であったように、わたしたちは生まれながらに特異の血を引くヴィスタリアだ。それは、鳥が鳥であることと、なんら違いはない」
それは、諦念といったものでは決してなく、そうある自身の存在をあるがままに受け止め認めているからこその、真実を告げる言葉だった。
「なぜわざわざ贖罪の時間を長引かせるようなことをする?」
アリューシャには、粛々と贖いが終わる日を待つべきところを、静かな水面に小石を投げ入れるようなことをする気持がわからない。
神の理など、どう足掻いたところで覆せるものではないからだ。
「……神に復讐したいのかもしれません。姉様のおっしゃることも、分かってはいるのです。けれど、与えられた力を思うがままに振るうことを罪とするなら、何故こんな力をお与えになるのでしょう。自制心をお試しにでもなっていらっしゃるのかしら。そうやって、神はひとを玩具にしているように」
「フィリア!」
「お見捨てくださって構いませんのに。番人はひとりで充分」
鋭い声に遮られても、アズフィリアは微笑さえ湛えて言い放った。
望めば、アリューシャとクリシュナはいつでも流れゆく時の中へ還って行ける。が、彼等はアズフィリアひとりの背に、罪を負わせるのを佳しとしなかった。
アズフィリアの手を掴み、なんとかあの事態を避ける術はあったのではないかと、もしヴィスタリア本家を離れてさえいなければ、と悔いていたからだ。
妹を疎む気持こそ薄かったが、自分を余りに軽んずる周囲の状況をすんなり受け入れるには自尊心が高過ぎた。少しでも自分を認められるために、王城に勤めるようになったともいえる。
そして、幼い頃から婚約者など決められて、拗ねた気分であったのは、何もアズフィリアだけでなく、クリシュナも同様だった。それでも最終的には一族の総意に逆らえるわけもないと分かっていた。すっかり開き直って遊び倒しているうちに、離れ難い女性と出会い、なんとかヴィスタリアの軛から逃れられないかと考えているところに、起きたのがアズフィリアの一件だ。
自分には関係ないと突っぱねてしまうには、血は余りに濃かった。
「こんな世界など滅んでしまえばいいのです。所詮神の箱庭。いかようにも作り直して、新たに作るのでしょうから」
まるで、自身がこの世界を司る女神であるかのように、フィリアは婉然と微笑んだ。
(了)
2011.01.02
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