星月夜の森へ/番外編

── Redundancy

手紙

 スクルド・トリンは、カーラスティン国の副宰相である。
 そろそろ四十に手が届こうかという年だが、未だ独り身だ。
 容姿、家柄、地位、才能、どれをとっても申し分なく、性格にも難はない、はずだ。
 彼の親類は、かれこれ二十年近くに渡って、飽く事無く花嫁候補を紹介し続けていた。
 だが、ここのところ、それがぱったりと絶えた。
 なぜなら、スクルドが養女を迎えたからだった。
 妻帯者でもないのにと、反対の声は大きかったし、我こそは彼女を養女にという声は多かったこともあって、それなりに顰蹙は買った。
 けれど、まあ、その甲斐はあったかと思っている。
 以前は、休日とは名ばかり、ただ資料や報告書を来る場所が自室に変わっただけという生活だったが、のんびりとお茶の時間を楽しむ事を覚えた。
 その日は久しぶりに、スクルドの伯母が縁談を持って来た。
 養女がいるなら、なおさら自身が早く結婚して身を固めるべきだと、それはそれは声高に捲し立て、自分が紹介する娘がどれほど素晴らしいのかを喧伝し、それでものらりくらりとスクルドにはかわされて、最終的には大層憤慨して帰って行った。
 さすがに気疲れをして、ぐったりと安楽椅子にもたれこんだスクルドに、心配そうな顔をした少女がハクロワ酒を少し垂らしたお茶を持ってきた。
「お父様、大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう」
 ようやく、お父様、という呼び方に不自然さが無くなって来たことに気を良くして、スクルドは茶器を受け取る。
 湯気とともに広がる芳醇な香りに、気疲れも和らぐ。
「……全く、リドラ伯母には辟易するよ。せっかくの休日に娘とのお茶の時間は邪魔してくれて」
「でも、お父様ほどの方が、いまだに独り身なのを心配されて……」
「まあ、予定が狂ったから仕方が無いんだ」
 特に彼女のせいでもないのに、申し訳なさそうに縮こまる少女に、スクルドはあっさりとそう言った。
「予定?」
「妻に迎えようと思っていた女に、逃げられてしまってね」
 スクルドの向かい側、こんな時間の指定席になった場所に彼女はちょこんと腰掛けて、養父の話の続きを待った。単に応えるべき言葉を持っていなかったのかも知れないが。
「求婚しようと思った時には、もうこの街を発ったあとだったよ」
「……どんな、方だったんですか?」
「そうだねえ……オルタンシェの花のように艶やかで繊細で、それでいて、草原に咲く花のようにしたたかなひとだったな」
 オルタンシェといえば、市井の者にとっては求婚時に贈る、いわゆる愛の象徴とされている花だ。幾重にも花びらを重ねる豪奢な花を咲かせるには、きめ細やかな手入れを必要とする為に、一輪の花に宝石一粒の値が付くほどだ。
 そんな花に例えられる女性とはどんなひとだったのかと、やや頬を上気させてうっとり想像している少女の夢を壊さない為にも、スクルドはそれ以上詳しいことは語らなかった。
 それでも。
 ほんの少し、こうして誰かに話しただけで、心が軽くなったような気がする。
 まだ彼女が傾城になる前から懇意にしていたから、付き合いは十年以上になるはずだ。その自尊心の高さを知ってしまえば、簡単に身請けを口にする事など出来ず、彼女が自らの力で、意思であの閉ざされた地を出るのを待っていた。
 それが徒になったのか、それとも、トリン家と縁を持ち、再び別の鎖、権力だの駆け引きだのといった政の世界でのしがらみに縛られることを厭ったのか。はたまた、彼自身に対しては、上客という以上の意識はなかったのかもしれない。
「あ、お父様、ごめんなさい、ダーネルさんからこれを預かっていて、お渡しするのを忘れていました」
 茶器を載せたトレイの上に置きっぱなしだった、若草色の封筒を少女が慌ててスクルドに渡した。  差出人の名は、ただイニシャルがあるのみだ。普通ならそんなものはスクルドの手許に来る前に破棄される。
 ダーネルはスクルドの屋敷の一切を取り仕切る執事で、大抵の事情には通じている。これは渡されるべきものだと判断したのだろう。
 スクルドも、躊躇いも無く開封した。
 したためられた文は、さほど長いものではない。癖の無いさらりと流れるような筆跡は、案外に彼女らしいと、思わず口許が綻ぶ。
「……良い知らせだったのですか?」
「ああ。噂をすれば、彼女からだ」
「まあ!」
 それこそ、胸躍らせる少女の期待とは裏腹に、グリヴィオラの王都へ向かう旅の途中なのだと、初めて見る草原の広さに、空の高さに、言葉も無く惹かれるといったことが綴られおり、そこには挨拶も無く去ったことへの謝罪は欠片も無かった。
 何を思って、こんな文を届けさせたのか、スクルドにはさっぱり分からない。
 けれど、煌びやかな世界よりも、草原に立つ姿の方が彼女には遙かに相応しいのだと、便せんから微かに立ち上る草の香りに、確信を得た。
 さて、この少女はどうだろう。
 代々、王家の近従を勤めるタルジーン家の次男ネイアスに見初められたはいいが、身分がただの田舎娘。故に、タルジーン家に嫁ぐに相応しい後見人として、スクルドが抜擢されたのだが、そのあたりには彼の姪であるティレンも深く関わっている。

 事の次第は、ティレンの唐突な訪問に始まった。
「伯父さま、お願いがございます」
 神妙な顔で挨拶もそこそこに切り出され、滅多な事で、誰かに何かを頼みなどしない彼女のこと、いったい何事かと彼は思わず身構えた。
 だが、想像を超えた彼女の申し出は、彼を呆然とさせるに十分だった。
「養女を迎えていただきたいのです」
 呆気に取られる意外、どうしろというのか。
 これまで、早く妻を迎えろと散々言われて来たが、養女を、と言われたのはさすがに初めてだった。
「先に手の内を明かさせていただきますわ。
 彼女をタルジーン家に嫁がせる為に、相応しい後見人が必要なのです。
 それと、恐れ多くも【金の小鳥】に仕える侍女の身分ががただの村娘では体裁が悪いだろうと、我こそが彼女を養女にという者がこのところ立て続けに現れまして、正直、辟易しておりまして」
 忌々しげに、彼女の顔が歪む。
「彼女には、ヒナコ様のことを全面的に任せるつもりでおりますのに、その彼女に、権力欲にまみれた後見人などが付いたら、面倒なことこの上ありません」
 幼い頃からきょうだいの誰よりも才気に溢れていた彼女は、望めば相応の地位に付く事が出来たろうに、何を思ったか聖宮の星見となっていた。両親は密かに彼女の縁談を進めていた為に大騒動だったし、出来れば自分の補佐に付いて欲しいと思っていたスクルドには残念極まりなかったが、一度決めた事を翻すような質でない以上、諦める他無かったのだった。
「随分と、率直だな」
「伯父さま相手に詭弁は通じませんでしょう?」
 にっこりと微笑む彼女がその意思を曲げる事も、思い通りに事を薦めない事も、彼はよく分かっていた。
 ただ、そう簡単に周囲が許すのかという懸念はあったのだが、それも杞憂に終わった。
 いくらティレンとネイアスが言いくるめようと、ソナは最初、スクルドの養女になる事を頑なに拒んでいたらしい。気楽な三男坊とはいえ、トリン家といえば、歴代の国務大臣を輩出している家柄である。気後れするのも無理は無かった。
 が、そのあたりはネイアスも心得たもので、ソナを説き伏せる前にトリン家の本家にとうに打診していたのだ。無論、ただの村娘であったなら、古くから王族付きの侍従を務め、城内業務の一切を取り仕切り、時には大臣と対等にやり合う事すらあるタルジーン家の次男であるネイアスが、どれほど頭を下げようと首を縦に振る事などなかったろう。
 けれども、巷では聖宮騎士団と並んで、健気にも献身的に【金の小鳥】に付き従い続けた侍女として褒め称えられ、既に数多の貴族から養子縁組の話が申し込まれている娘ともなれば、話は別だった。相続関連で幾つかの制約は付いたものの、嬉々としてソナをトリン家の一員として迎えることを約束した。
 はっきりいって、もうソナの意思など関係なく、事態は進んでいたのである。
 翌々日、連れて来られた少女、ソナ・エルジーは、本当にこれが、戦場でさえも健気に【金の小鳥】に付き従い続けたという侍女なのかと疑いを抱くほどに、これといった特徴も無い、ただの田舎娘だった。
 が、翌朝になってみれば、覚悟を決めたのか無駄に怯えた様子はなりを潜め、真っ直ぐにスクルドを見るようになっていた。
 質素な衣服の胸元に、天晶石を見て、ネイアスが戯れにこの少女に目を掛け、婚姻を結ぼうとしているわけでないことも十分に悟った。
 天晶石は、見た目は闇を結晶化させたかの如く、ただ黒いだけの石だ。
 若い娘がもらって嬉しいようなみてくれではない。
 けれど、微かだが澄んだ音をもたらすことがある。まるで石自身に意思があり、選び取っているかのように、その音を聴く事が出来る人間は限られていた。
 その為か、身に付けた天晶石の音を聴く事が出来た者は、どんな災厄からも守られると信じられている。
 その希有なる石は、とうに掘り尽くされて、ここ数十年新たな鉱脈が見付かったという話は聞かない。それまでに採掘されている量もたかが知れている上に、多くは貴族が秘蔵している場合が多いため、実際に目にした事のがない宝石商も珍しくないのだった。
 それほど希少なものを、ただ気に入っただけの娘に渡すわけが無い。
 尤も、聖宮騎士団と共に、王の不興を買った王太子に付き従って戦場へ出向いたというだけでも、真剣さの度合いは分かろうものだが。

 あと二年ほどはスクルドのもとで、行儀作法やその他、これからの暮らしに必要なことを学ぶだろう。
 それ以後も、たまにはこうして共に穏やかな時間を過ごせる機会があれば良いと思う。
「ねえ、お父様はその方をお待ちになるの?」
 ソナの目は、若草色の封筒に向けられていた。
「さあ、どうだろう」
 もう少し周辺の事情が落ち着いたら、長期の休暇でももらって旅にでも出ようかとふと思う。
 彼女を追いかけたいというのではなく。
 まだ微かに香る草の匂いに、周囲からもたらされる情報からばかりでなく、その目で広い世界を見たいような、年甲斐も無くそんなことを感じたのだった。
(了)
2009.03.01


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