星月夜の森へ/番外編

── Redundancy

その後の人々。

 じりじりと街道を焦がす太陽を見上げて、トラトスは小さく息を吐いた。無意識に喉を撫でる。
 指先に、微かに感じる違和感。
 目立つことはないが、少しばかり残ってしまった傷痕だ。
 彼自身は非道な遣り口で珠玉を手に入れたことはないし、力の及ぶ限りは、条件の良い妓楼に譲り渡しているとはいえ、女衒という商売柄、恨みを買うことはしばしばだ。
 故に、彼は護身の術をある程度身に付けていた。
 危険な事態に陥らない為に、不穏な空気にはとても敏感だ。まずは、ことを構えるより先に隠れる、もしくは逃げる。それが叶わないときは、目くらましの煙玉だの、身体が痺れる作用のある香だのを惜しげもなく使う。体術や、常に隠し持っている小刀を使うのは、最後の手段だった。それは、自信の無さからくるものではない。血腥さは、後を引きやすいのだ。要らぬ恨みを重ねて負うようなマネはしたくはなかった。
 ふと、傍らを歩く少女のつむじに目をやり、あの子を連れて歩いたのも、二年前のこの時期だったなと思う。
 闇を湛えた黒髪に、星を映す夜の泉を思わせる瞳に一目で惚れ込んだ。
 久々に掴んだ珠玉の中の珠玉だと、浮かれていたのは束の間のことだった。
 まるで神に見放されたかのような異形。
 本来ならアトールに連れて行くべきではなかったのに、検分するのを後回しにしたことが祟った。
 カーラスティンで最も華やかな色街でありながら、頑なに古風な一面を保つアトールは、異形を嫌う。疑似恋愛を楽しむ場であって、ただ享楽に身を委ねるためだけの街ではないからだ。つまりは、手に入れた珠玉の居る場などない。
 落とすべきは、それを売りとして成り立っている色街ネペンサだったのだ。
 それでも、神の愛し子としてもてはやされる双成りならいざ知らず、その真逆では、下手をすれば供物にされないとも限らない。特に、その時期は天候が不安定で、収穫が激減した農村では、怪しげな護符などが出回り、聖宮とは関係の無い、怪しげな祈祷者があちらこちらで荒稼ぎをしていたという。
 いずれにせよ、いつもの彼であれば、絶対に手を出さなかった瑕疵を負った珠玉だった。
 けれど、それもまた何かの導きだったのかとも、後になってみれば思わないでもない。
 銀月楼のヴィリスがその身を引き受けてくれたのは、これ以上無い僥倖であり、ネペンサであろうと、どこか場末の花屋だろうと、ああいう決着以外では、後味の悪い思いをしたに違いないのだから。
 どうにか納得出来る状況で王都を離れたというのに。
 指先に触れる僅かな盛り上がり。
 人の爪が食い込んだにしては、余りに鋭い傷口だった。
 まるで獣の爪を押し付けられたような傷だと医者には言われた。
 噂、と言っても、同業者だけにこそりと伝わったものだが、銀月楼から新米上臈が獣に攫われたと聞いた。
 この、妙な符合を偶然と断じていたら、女衒などやっていられない。

 王都に入ると、生まれ育った村から出た事の無いと話していた少女が、きらきらと目を輝かせ始めていた。その顔は年相応に好奇心に満ちている。
 真昼の太陽のような淡い金髪と、若葉の色をした瞳。
 今はまだ十五歳にも満たぬただの田舎娘だが、アトールでも、そこそこに格のある妓楼に引き取ってもらえる器量ではある。
 磨き方次第では、傾城に上り詰めることも出来るだろう。性格も素直だし、良い客がつく事も十分に有り得る。
 けれど、今は沈んだ様子しか見せない少女だが、こうして明るい表情を見ていると、快活で朗らかな性格の方が本来の姿なのだろうことを伺わせた。妓楼に、そういう性格が合うかどうかというよりも、この少女には、明るい笑い声をたてながら忙しなく働く姿の方が遥かに相応しいような気がする。それは、二年前連れて来たあの子にはまるで感じなかった事だ。こういう生業に引き込む事に、何の躊躇いもなかった。寧ろ影に在る方が相応しいような、歪みにも似たものを感じていたからかも知れない。
 そんなことを思いながらも、トラトスの足はアトールに向かっていた。
 勢いで、相手の言い値で少女を買い取ってしまっており、元手は相当掛かっている。
 何の縁も所縁も無い少女に、慈悲を施してやるほどのお人好しになるつもりはなかった。
 ツェミレ河に抱かれたその街と外界を繋ぐ唯一の橋を渡り、門をくぐった途端に、
「トラトスじゃないか!」
 と声をかかった。
 それに誘われるように、わらわらと人が集まり始める。
「あんた、生きてたんだねえ」
「二年も顔見せないで、何をやってたんだい」
 誰もが懐かしげな言葉を口にした。
「その子が今度の珠玉か」
「前に連れて来た子とは、また全然違う色だねえ」
 次々と、値踏みするようにトラトスの傍らで、事情が飲み込めずに少女は借りて来た猫のように固まっている。
「ふうん、これはこれは……」
 少女の顎に手を掛けて、それこそ商品の検分でもするようにまじまじと見たのは、東雲楼の楼主だ。
 トラトスはその手を、わざと音を立てて払い落とした。
「お披露目でもないのに、珠玉に触らないでもらえますかね」
「これは失礼したね」
 銀月楼の楼主がどこかとぼけた雰囲気を持っているのとは対照的に、いかにも遣り手といった雰囲気を持つ彼は、含みのある笑みを浮かべた。
「お披露目の期日が決まったら、連絡をおくれ」
「それはもちろん」
 東雲楼の楼主が去ってゆくと、トラトスはあからさまにほっとした溜め息をついた。
 彼の手を、直接払うというのは、結構な賭けなのだ。その後ろに控えている傘持ちが、もし危険だと判断したなら、その場で組み伏せられるくらいで済めば幸運、事と次第ではあっさりとあの世へと招待されてしまう。けれど、それがアトールで起こった事ならば罪として裁かれる事はない。

「……さっきのあの人は誰?」
 二年ぶりにも関わらず、前と変わらず迎え入れてくれた馴染みの茶屋で、ようやく旅の荷を解き始めたトラトスに、少女が問いかけた。その声は、何故か嫌悪を孕んでいた。
「東雲楼の楼主だよ。このアトールでは一、二を争う格の高い妓楼のね」
「あの人のところに、売るの?」
「いや、お披露目をして、お前を気に入ってくれた楼主と目通りを終えてから決まる」
「あたし、あの人のところだけは嫌」
 少女はきっぱりと言い切った。
「そういうなら、どれほどの高値を付けようと、東雲楼だけには売らないから安心すると良い。まあ、条件として悪いところじゃないから、仮に話があったとしたら惜しいとは思うがね」
 無論、トラトスとしては、出来るだけ高値を付けてくれた妓楼へ渡したい。
 だが、言葉とは裏腹に、トラトス自身も東雲楼には引き渡したくないという気持ちがあった。
 以前から、商売人然としたところはあったが、さほど嫌な感じを持ったことはない。それが、今日はほんのわずか触れられただけでも、自分の連れて来た珠玉が穢されたような、不快な気分になったのだ。
 少女を連れて、茶屋のすぐ裏にある湯屋で旅の汚れをさっぱり落とした後、トラトスは表通りの方を好奇心に満ちた目で見遣る少女に、勝手に外へは出ないよう言いおいて、所用を済ませる為に出掛けた。
 相変わらず活気のある様子にほっとしながら、この二年の間にそれなりの変化を見せている大路にそつなく目を走らせた。
 まだ日の高いこの時間、妓楼の籬は閉ざされ、あちらこちらから舞や歌の練習と思しい、まだどこか拙い歌声や弦を爪弾く音が聴こえて来る。
 古くからこのアトールで商っている小間物屋で、ふと足が止まった。
 どこの国の意匠とも知れないが、随分と個性的な、それでいて伝統的な落ち着きを感じさせる簪を一本手に取る。
 細工は丁寧で、奇抜な意匠ばかりを売りにした若手が作る粗悪品とは、明らかに一線を画していた。使われている碧水石も小粒だが質の良いものだ。
「お、さすが目が高いね」
「いくらだい?」
 値段を聞いて、トラトスが驚くと、それこそ店主は我が意を得たりとばかりに得意げな顔になった。
「作ってるのはまだ若い職人だからね」
「でも、若くたって、もっと吹っかける奴の方が多いだろう」
「基本的には、お貴族様からの注文で食ってるみたいだから、この辺のは遊びみたいなもんなんだよ。だから数が少なくて仕入れるのが難しくてね」
 運がいいね、あんた、と店主はもうトラトスがそれを買うことを疑いもしない。茶屋で留守番しているあの少女に、餞別に贈るのも悪くないかとそれを包んでもらい、懐にしまうと、
「ところで、職人の名は?」
 と聞いてみた。
「ジェイドだよ。王都に小さな店を構えちゃいるが、この時期は奥さんと一緒に旅に出てるから会えないとは思うがね」

 予定外の寄り道の後、行き着いた先は銀月楼だった。
 典雅で風格のある店構えは変わらない。
 けれど、以前は感じた勢いというか、絶対的な重みが失われつつあるような気がした。
 すぐ脇の小径に入って、裏木戸を潜ると、勝手口から禿たちが数人出て来るところだった。手にしているのは稽古事の包みではなく、小洒落た巾着袋であるところを見ると、ちょっとした空き時間が出来て、遊びに出掛けるところなのだろう。
「済まないが、楼主に取り次いでもらえないかな。トラトスが来たと言えば分かると思う」
 突然の訪問者に、少女たちはぱたぱたと中へ戻って行った。
 暫くして姿を見せたのは、楼主タランダの細君であり、この楼閣を取り仕切る束頭でもあるアーウェルだった。
 既に不惑を越しているはずだが、その外見だけでいうならば、匂い立つ美貌は盛りの傾城かと思わせる。
「……随分とお見限りだねえ」
 やや険のある口調に、
「まあ、色々あったんですよ」
 と、トラトスは苦笑を滲ませた。
「まあ、積もる話は中で聞こうよ」
 促されて客間に上がると、もうタランダが待っていた。
 まだ老いを感じさせるほどではないが、歳をとったなと、たった二年、されど二年という時間の重みを受け取った気がする。実際、その間に傾城のヴィリスとファーランの二人が年季を終え、ここを去っていたし、その後を継ぐはずだったリシェは二人よりも先に身請けされ、今では豪商の奥方となっていることは、王都を長く離れていたトラトスですら耳にしていた。
 そのことが、久しぶりに見た銀月楼に感じたことに通じるのだろう。
「ご無沙汰しています」
「久しぶりに珠玉を連れて来たようだねえ」
 のんびりとした話し方と、人好きのするやわらかな表情は変わらない。
 決して内面を裏切るわけではないが、それに騙されると痛い目を見る事はトラトスも知っている。
「メリアーダあたりで小間物屋でもやろうかと思ってたんですがね……、ちょっと行きがかり上、引き取る事になってしまいまして」
「ほう?」
「よくある話ですよ。小さな頃に母親を亡くして、父親と二人でつましく暮らしてたそうなんですが、その父親が仕事で大怪我をしちまって、頼った親類ってのが業突く張りでね、知らないうちに途方もない額の借金を背負わされたっていうんですよ。で、父親が亡くなった途端、メリアーダの娼館ならともかく、金持ちの慰みに売り飛ばされるっていう話だったんで……」
 メリアーダは王族も訪れる風光明媚な保養地だ。当然、そこに在る娼館は選り抜きの者たちが集い、その質はアトールに次ぐといわれている。そこでなら、借金を返し、身に付けた様々な芸事でその後は身を立てる事も出来ようが、よりにもよって、官吏の腰巾着といわれている商人に売られるとなれば、行く末は火を見るより明らかだった。
「別に、人助けってわけじゃあ、無いですよ。ちょっと喧嘩をふっかけられたんで、つい売り言葉に買い言葉っていいますかね……、まあ、それだけの珠玉だとは思いましたし」
 本当のところは、先に喧嘩を売ったのはトラトスの方ではあったのだ。隙を見て逃げ出した少女が身を隠そうと忍び込んだ先が、トラトスが逗留していた宿屋の裏庭だった。偶々見咎めたトラトスに、必死になって助けを求める少女に対して、まず覚えたのは、もったいない、というものだった。これなら上々の玉になるのに、と。
 だから、これは同情ではない。
 少なくとも、トラトスはそう思っている。
 生まれ故郷で細々と長らえていた村人の最後のひとりを看取ったあとで、人恋しく、感傷的になっていたからなどと、決して認めはしないだろう。
「で、二年も顔見せないで、今頃何しに来たんだい?」
 卓上に三人分の茶碗をぽんぽんぽんと並べ、茶を注ぐアーウェルは、まだ不機嫌そうな様子だ。
「ヴィリスからの言伝を預かってまして、それを届けに来たんです」
「ヴィリスから?」
「ええ」
 アーウェルが怪訝な顔をしたのも無理はない。年季が明けて去って行った上臈が、そんな事をするのは酷く珍しい。普通はきっぱりと縁を切るものなのだ。
「『獣に攫われた黒髪のあの子は、いるべきところへ帰った。もう何も心配することはない』、だそうです」
「はん、あんたが連れて来た子のことじゃないか」
 忌々しげにアーウェルは吐き捨てた。
「で、ヴィリスは元気でやってるのかい」
「今頃、旅芸人の一座と一緒にグリヴィオラへ向かってますよ」
「あの子も何を考えてるんだか……」
 額に手を当て、芝居がかって見えるほど派手に溜め息を吐くアーウェルの横で、タランダは面白そうに笑った。
「まあ、ヴィリスの事だ、いずれは落ち着くところに落ち着くだろうさ」
 タランダはヴィリスが【風聴き】である事だけでなく、【風聴き】が何たるかも知っている。その血が、草原が広がり風が渡る大地を求めているのだろうと思うと、その旅立ちを祝福せずにはおれないのだった。
「で、お披露目は何時なんだい?」
 その話はもう結構とばかりにアーウェルは話を急いた。
「そうですねえ、少しは休ませてやりたいですし、仕度もありますしね。十日ほど後を考えてます」
「随分のんびりだね」
「これで、この仕事は最後にしようと思ってますから」
「あっちこっちで恨み買って、酷い目にあう前に足を洗うのも賢い選択だよ」
 憎まれ口は止まないが、表情には少しばかり心配そうな色が滲んでいる。良からぬ手段を使ったならともかく、逆恨みで襲われたりする女衒は少なくない事を、彼女もよく知っているからだ。
 冷めないうちにお茶を飲み終えたトラトスは、早々に腰を上げた。
 引き止めもせずに見送ったアーウェルは、直ぐさま文をしたためると、タランダの傘持ちをひとり呼びつけた。
「メイヤー商会へ使いに行っておくれ」


 帳簿に目を通し終えて、ハルウェルは椅子の背に身体を預けて上を向き、眉間を指で揉み込んだ。
 そろそろ油が切れるのか、灯りの火が、細く揺らいでいた。
 商いの方は順調だ。
 二年前に妻に迎えたリシェは、若いながらも女主人として認められ、慎ましく彼に寄り添う姿は社交界でも随分と評判が良い。夫婦仲も決して悪くないと思う。めでたくも、今、リシェは臨月を迎えており、それこそ幸せのさなか、のはずだ。
 けれど、今でも時折、暗い顔をする。
 それが何に起因しているのか、ある程度予想はついているのだが、彼が財産を投げ打ったところで解決する問題でもない。実のところ、こっそりと手を回してはいたのだが、茫漠とした噂話を二つ三つ拾い上げただけで、確かな手がかりひとつ見付かりはしなかった。
 お茶でも持って来させようかと、机の上の呼び鈴に手を伸ばそうとして、そういえば夕方に銀月楼から文が届けられていた事を思い出した。
 花びらが漉き込まれた紙に、品を損なわない程度に勢いの良い女文字でそれはしたためられていた。
 最初はなおざりに流していたハルウェルだが、途中から食い入るように読み始め、読み終えるなり、机の上に出したままの帳簿をしまう事もせずに部屋を飛び出した。
「リシェ!」
 店と屋敷を繋ぐ渡り廊下の途中から、ハルウェルは妻の名を呼んだ。
 何事かと姿を見せた使用人たちには全く構うこと無く、ハルウェルはリシェの姿を探した。
「旦那様?」
 使用人のひとりに支えられながら、ゆっくりとした動作で屋敷から出てきたリシェに、ハルウェルは半ば掴むようにして持って来た銀月楼からの文をその手に握らせた。
 怪訝そうな顔で、やや皺の寄った文を丁寧に広げたリシェは、程なくしてほろほろと涙を零し始めた。やがて、子供のように泣きじゃくり始めた妻を、ハルウェルはそっと抱きしめた。


 真夏の明るい太陽の下、逝く人を送った後の空気は、奇妙に高揚していた。
 長く煩っていたエリン領の領主でありナーダの父親の容態が急変したのは、ほんの一昨々日の事だった。少し風が強く、続いていた暑さもすこし和らいで感じられたその日の午後に、いつものように午睡を取っていたナーダの父は、二度と目覚める事は無かった。
 葬儀を終えて、最後にひとりで祈る時間をもらったとはいえ、これから直に肩にのしかかって来る重責に悲しむ余裕も無く館に帰ると、親類たちが手ぐすねを引いて待ち構えていた。
「お父上が無くなったばかりでこんな事を話すのもどうかとは思うのだけれどもね」
 という前置きで始まったのは、とどのつまりは、領主が独り身というのは体裁が悪いから、さっさと嫁をもらえということだった。それが、自分の身内なら尚良い、というのがあからさまに透けて見えるのは、結局ナーダの係累は悪人に向いている人間が少ないという事なのだろう。
 ミディールが鮮やかな笑みで彼らに早々にお引き取り頂くと、さほど顔の筋肉を動かしても居ない割には、がらりと剣呑な様子に変わり、
「だから、さっさと迎えに行けば良いと申し上げましたでしょうが!」
 と主君に対して怒鳴りつけた。
 ミディールが、延期し続けていた婚儀を済ませたのは昨年の事だ。不甲斐ない息子が嫁を取るなどあてにしとらんと、代わりにミディールとその花嫁の姿を見たがったのだ。病に臥せっていた為に、婚儀に参列こそ出来なかったが、晴れの日の衣装を身に付けたまま挨拶に訪れた二人の姿を見て、まるで息子のことのように喜んでくれたことは、未だ鮮やかな記憶だ。
 だからこそ、ミディールは、散々ナーダをけしかけていたというのに、もたもたしているうちに領主は逝ってしまった。挙げ句の果てに、葬儀の場だという事も弁えず、粧し込んだ娘を連れて来るような親類なんぞに、したり顔をされたのでは、彼としては憤懣やるかたないのだった。
 年季が明けて、自由の身となったファーランは、ナーダのもとに来るものだと誰もが思っていた。
 が、彼女は妓楼にいた身に引け目を感じてか、宿場町ムレットで小さな宿屋を始めてしまったのだ。彼女の他には住み込みの少女がひとりと、通いの料理人がひとりという、小さいけれども、居心地の良い宿屋は直ぐに評判になった。綺麗な女主人に懸想して、結婚を申し込む者が引きも切らないという噂は、そのまま事実に違いない。
「旦那様がどれほど、あなたの晴れ姿を見たいと切望なさっていたか、分かっていらっしゃいますか。それなのに、あなたという人は、この期に及んでもまだ愚図愚図と……」
 ミディールの、半ば愚痴にも聞こえる説教が止まったのは、何食わぬ顔で執事のグランダが部屋に入って来たからだった。祖父の代からこの家に仕えているという彼に、幼少時から二人とも頭が上がらない。
「お取り込み中、失礼いたします。王都のハルウェル・メイヤー様から書状が届いております」
「ハルウェルから?」
 ミディールの剣幕から解放されることに安堵する表情を誤摩化すように、わざとらしく咳払いをして、ナーダはそれを受け取った。
「いったい何だったんです?」
 まだ領主の死の報が王都にまで届いているとは思えず、お悔やみなどでないことは明らかだ。
 訝しげに眉根を寄せるミディールに、ナーダはその書状を放った。素早く文面に目を走らせると、それこそ当てつけのように彼は深々と溜め息をついた。
「……会いに行くには良い口実だと思いますが?」
 前置きの挨拶に始まって、いつぞやは妻が大変に世話になり、あの日、居なくなった者の捜索に協力してもらったことに感謝すると礼を述べる言葉が続き、そして、ようやくそれが決着を見たという報告が綴られていた。
 そして、リシェが母とも姉とも慕っていたファーランに、これでようやくリシェも蟠っていた憂いを散らし、日々の穏やかさを心から受け入れてくれるようになったと伝えて欲しい、と最後に書き添えられていたのである。
 アトールを去り行く者は足跡を残さない。大店の細君に納まったり、何か商売でもはじめたのでもなければ、アトールを去った上臈の行き先など知らなくて当たり前のことだ。
 無論、出入りの業者も多く、情報に通じているハルウェルが、ファーランの居所を調べて分からないと言う事など有り得ないし、彼でなくとも、旅をするものなら評判の宿の噂には耳聡い。ファーランのその後を知るものはそこかしこにいるはずだ。
「……何にこだわっているのは存じ上げていますが、大概になさいませんか」
 自分の力で身請けすることが出来なかった甲斐性の無さと、知っていながらナーダに領主の仕事を代行させ、休む暇すら与えなかった父は、いくら最上の格を有する妓楼の傾城であろうと、身内に迎える事を暗に拒んでいたのでないかと、そしてファーランの気持ちにすら畏れを抱いている。
「こんな臆病者を主君に持った覚えはないのですが」
 途端、ナーダの目が険しくなった。
 主従関係にあるとはいえ、幼少の頃からの付き合いで、最も気心の知れた友人でもあるミディールであっても、捨て置けない言葉はあるのだ。
「おや、何か気に触りましたか」
 が、分かっていながらミディールの方もしゃあしゃあと言ってのけた。
 しばらく睨み合いが続いた後、先に視線を逸らし、
「どのみち、今、自由になる時間などないだろう。父が亡くなったばかりで引き継ぎや、領主の認証を受けたりと、当面は忙しいんだ」
 この期に及んでそんな事を口にしたナーダに、さすがにミディールはキレた。
「どうせ面倒なことは全て私に押し付けるつもりでしょうが。これ以上、四の五の言うなら、これからその机に積み上げられる書類は、お一人で処理なさってください」
 ナーダとて、無能ではない。それでも、ミディールの補佐は無くてはならないものであったし、彼の優秀さに慣れて切っていて、例え数日でも彼を失うのは、相当の負担が増える事を意味した。
 感情的になっているくせに、的確に他人の弱みを突いて来る辺りは、腹黒い性格が滲み出ていて、結局のところ、口先で勝てる相手ではないのだった。
「そこまで言うのなら、手続きの書類関係はお前に任せて、俺は心置きなく行って来られるというわけだな」
 悔し紛れに意地の悪い笑みを口の端に浮かべてそう言うと、さすがにミディールは苦々しい顔をして、
「無駄口はもう結構。さっさと行ってください」
 と、ナーダを執務室から追い出した。
 屋敷の外で、涼しい顔をして馬の轡を引いていたグランダが、ナーダを見送った後、ミディールから愚痴を聞かされ、挙げ句の果てに書類の決済の手伝いまでさせられる羽目になったことは言うまでもない。


 今年の灯衛を担う霞紅楼の奥座敷で、少女のお披露目は行われた。
 金の髪はその艶やかさを見せるためにあえて何の飾りもなく、サルーファ産の手の込んだ透かし模様の薄紫の衣装に、銀糸で花鳥が縫い取られた帯を締めた姿の少女は、これまでの珠玉と比べたならば、外見は凡庸と言えた。が、集まった楼主たちを惹き付けたのは、瞳の奥に見え隠れする、何にも染まらず、己を貫こうという強い意思だった。
 それは、磨きがいのある珠玉であるなによりの証だ。
 当然のように、東雲楼の楼主は少女に破格の値を付けた。
 格の高さこそ保ってはいるものの、去った二人の傾城の後を継ぐだけの上臈が育っておらず、一時期の勢いを失っている銀月楼には、そこまでの値は出せなかったし、他の楼閣もそれは同様だった。
 だからこそ、東雲楼はそれだけの常識外ともいえる値を提示したとも言える。
 東雲楼が、アトール随一の楼閣なのだと誇示せんが為に。
 一番の高値を付け、当然一番最初に目通る権利を得た東雲楼の楼主を前に、トラトスに教えられた所作の通りにお辞儀をすると、少女は遠慮も怯えもなく、
「お断り申し上げます」
 と毅然として言い切った。
 空気がざわめく。
 それは、ここのところ、まるでアトールの主のような振る舞いをしている彼に対して溜飲が下がった思いでもあった。
 なぜなら、珠玉は、一通りの目通りを終えてから、どこの楼閣からの申し出を受けるか答えるのが通例であって、その場で即答する事など滅多にないからだ。しかも、それが拒否の言葉であれば、相手の面目は丸つぶれといっていいだろう。
 トラトスに促されて、次は白雪楼、霞紅楼、と楼主の目通りは続いた。
 東雲楼の誘いを袖にしたことで、少女の価値は彼らの中でぐんと上がった為に、口説きにも熱が入る。お披露目は夕刻を過ぎ、アトールが華やぐ時間になっても続いた。
 悩むほど考えるような時間は、少女には与えられない。が、どうやら一通りの目通りを終えた時点でほぼ心は決まっていたようで、やや不安げに自分を見上げた少女に、トラトスはただ頷いた。一番の安値を付けた楼閣を選んだとしても、彼は文句を言う気はなかった。
 少女が選んだ先は銀月楼だった。
 集まった十数人の楼主の中で、目通りの順は七番目、つけた値はさほどではない。
「納得いかないね。失礼だが、うちは銀月さんの倍の値を付けてるんだよ? 条件だってさほどかわりゃしない。最初から、話はもう決まってたんじゃないかい?」
 東雲楼の楼主は、いかさま博打を断罪するかのように、ねとりとした口調でけちをつけた。
「どうお思いになろうと結構ですが、もし先に渡す楼閣が決まっていたら、お披露目なんてしませんよ」
 さも心外な、とばかりにトラトスも言ってのける。
 トラトスがお披露目を行うようになったのは、彼が連れて来る上臈の卵が珠玉と呼ばれるようになり、多くの楼閣から望まれるようになったからで、値を吊り上げたいからではない。出来れば、珠玉にとって少しでも良いところへ渡してやりたいと思っていたから、ちょうど良い機会だと利用しただけの事なのだ。
 これまでとて、必ずしも最高値を付けた楼閣に珠玉を渡していたわけではない。
「さあ、どうだかね。裏で一体どれだけ動いているんだか」
 そう吐き捨てると、東雲楼の楼主は傘持ちを連れて忌々しげに場を立ち去ってしまった。残された楼主たちは、張り詰めた神経を緩ませて、一様にほっと肩の力が抜けていた。
「やっぱりね、一、二を争ってるったって、格ってもんが違うんだよ、銀月さんとは」
 銀月楼よりも高値を付け、悪くない条件を出して尚、口説き落とせなかった楼主のひとりが、悔しがるというよりも、寧ろ身内を誇るように、何度も頷きながらそう言うと、
「最近の東雲さんは、品がなくていけないね」
「あれがアトール随一の楼閣ってなった日にゃ、こちとらの品格まで疑われるってもんだ」
「昔はあんなんじゃなかったんだけどねえ……」
 次々と、そんな言葉が呼応した。
「大体、トラトスを疑ってたら、他の女衒なんか信用出来たもんじゃないよ」
 いくら、他の遊郭に比べて統制が取れており、上臈たちも恵まれた条件下にあるとはいえ、やはりここは夜の街である。水面下は常に微妙な駆け引きと腹の探り合いだ。それが嵩じて騙し合いになる事もままある。そんな中で比較的トラトスは裏表のない商売をする男だった。尤も、単に面倒くさがりなだけかも知れないが。
 その後はあっさりと解散するものだが、霞紅楼の計らいで催されたささやかな酒宴が、東雲楼が残していった不快な空気を払拭し、いつになく和やかな様子でお開きとなった。

 タランダが帰路に付いた時には、もう随分と遅い時刻で、既に少女は眠りの誘いに耐えきれず、傘持ちのひとりに背負われていた。
「そろそろ店を畳む事も考えていたんだがね……」
 銀月楼の楼主は、静かに呟く。
「これも縁だ、しっかりと磨き上げて、銀月楼を背負ってもらう事にするよ」
「相当なじゃじゃ馬だとは思いますが、よろしくお願いします」
「じゃじゃ馬には慣れとるよ」
 その言葉に、二人して笑う。
 暗に、と言うほどでもなく、ヴィリスのことをタランダは懐かしむ。あんな型破りな傾城はいなかったと。
 そんな思い出に僅かでも浸るようになってしまったことに、ふとタランダの老いが見えた。
「いずれは風の噂にでも、彼女の消息は聞こえてきましょうよ」
「そうだね」
 さほどの距離もなく、銀月楼に到着するとトラトスは少女を揺り起こした。
 表の喧騒が微かに聞こえて来る木戸口の、上がり框に腰を降ろした。タランダが気を聞かせたのか、直ぐに奥から出て来るはずのアーウェルはまだ現れない。
「これでお別れだ。ここも甘いところじゃないが、金持ちの慰み者になるよりは、未来があるってもんだ。それも自分次第だがな」
 柄にもなく、そんな事を言いながらトラトスは懐から取り出したものを、既に飾りの類いは外されて、纏められただけの髪にそっと挿した。
「餞別だ」
「もうお別れ……?」
「ああ。明日の昼前にはここを発つ」
「どこに行くの? また来る?」
 それには答えず、トラトスは少女の頭を軽く撫でた。
 誤摩化すつもりはないが、生まれ故郷は人が絶え、女衒という仕事に見切りをつけてしまうと、自由になったというよりは、身ぐるみ剥がれて放り出されたような不安定さがあって、答えようがなかったのだ。
 元では十分にあるから、さほど本気でもなく口にしたように、メリアーダで小間物屋をやるのも悪くない。ヴィリスのように、しばらく放浪でもしてみようか。
「楼主によろしく言っといてくれ。じゃあな」
 もう、手放した珠玉に用はなかったし、下手に入れ込むつもりもない。
 女衒の最後の仕事としては、十分に満足出来た。
 奥からようやく出て来たアーウェルに、
「よろしく頼みます」
 と挨拶だけして、トラトスは銀月楼を後にした。
 この少女が後に銀月楼ばかりでなくアトールを背負う傾城となり、やがては街そのものを変革に導くのは、それから十年余り後の事である。
(了)
2009.01.30


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