星月夜の森へ/番外編

── Redundancy

草原に吹く風は

 グリヴィオラの王、イェグランは、豪放磊落で知られている通り、どこか大雑把だ。そのくせ、やや神経質なところも兼ね備えており、私室を弄られるのを酷く嫌う。掃除をするにも、前もって許可を得ねばならないくらいだ。
 そんなわけで、彼の部屋──といっても、当然ひと部屋だけではない──には、未だにアズフィリアがいた名残が残っている。
 好んで読んでいた本だとか、窓に掛かる羅紗だとか。
 もちろん、ルウェルト皇国から輿入れした正妃セルフィナの自室に用意されたものは絨毯やカーテン、家具、壁紙に至るまで全て新しい。わざわざルウェルト皇国を意識した意匠のものもそこかしこに見られるし、身に付けるものや食事などにも、そういう気遣いが細やかに行き届いている。だから、正妃という立場に安穏としているからというわけではなく、不思議と嫉妬は感じない。
 だからといって、全く気にならないというわけでもない。
 もはや伝説ともなっているような古の一族の末裔だという女。
 得体が知れない割に、彼女を悪く言うものはいない。無邪気な少女のようにも妖艶な情婦のようにも、そして高潔な淑女のようにも見えたのだと聞けば、一体どんな女だったのかと興味が湧く。
「どんな方だったのだろう……」
 その呟きを耳聡く聞きつけたナディアが、それをすっかり勘違いしたことで、この翌日から始まる、イェグランの私室が大改装されることになってしまった。

 三日掛けて、すっかり様変わりした、と言っても、もともとイェグランの暮らしぶりは大国の王にしては常識はずれなほど質素だ。贅沢といえば、式典用の衣装と酒ぐらいだろうか。故に、実際のところ、さほど変わっているようには見えないその部屋で、決まり悪そうにイェグランはセルフィナを呼んだ。


「……これから、気になることは言え」
 何のことかと首を傾げれば、ちびちびとリゴル酒を舐めながら、なんとも微妙な、情けなさそうなというのが最も近い顔をする。ウェルディネヴァ広しといえど、その中で最も強大な国の王に、こんな顔をさせるのはセルフィナだけだと知るのは、幸いにもこの夫婦二人だけである。
 セルフィナは草原に住む百獣の王のように、だらしなく身体を横たえた王の傍らに、愛用のクッションを敷いて腰を降ろした。
 緻密に織り込まれた厚手の絨毯の上に、さらにやわらかく手触りの良い敷布が重ねられているとはいえ、床に座って寛ぐという習慣には驚かされたが、慣れるのは案外に楽だった。夏になると、絨毯が取り払われて乾燥させた草で編まれた敷物に変わる。心地良い香りがする上に籠りがちな熱を逃がすという、随分昔から使われているものだという。
「あれは、俺がまだ旅暮らしをしていた頃に会った女だ」
「アズフィリア様のことですか?」
「……あのな、商売女と遊んだことは否定しないが、節操無しに手を出したりはしてないぞ」
 イェグランは苦々しげに呟いた。
 話が唐突だった為に、何やら含みがあるような言い方になったのかもしれないが、セルフィナとて、イェグランが節操無しだと思ったわけではない。実像は案外に噂とはかけ離れているものだ。
「ツァルト国を訪れた際に、どうやら聖域とされているところに足を踏み入れたらしくてな」
「ツァルト国というと、東方の、あのプロセルフィン山脈を抱いた……」
「ああ。さすが孤高を貫くだけあって、厳しい土地だ」
 農地が少ないために、食料を他国からの輸入に頼るツァルト国がウェルディネヴァ諸国に誇るのは、毛織物と薬草だ。
 山岳地にしか生息しないアトラ山羊の毛織物は軽くて暖かく、質の高さと共に織り手の巧みさにも定評がある。希少な薬草から作られる薬の効能の高さは他国の追随を許さないなど、厳しい環境ではあるが、国民の識字率も高く、農作物には恵まれないながらも、豊かな国といえるだろう。
「まあ、禁忌とされるところに出入りするのは、得手なんだがな」
 ちらと視線を送られた意味を、セルフィナは未だ知らない。
 まさか幼少のみぎり、こっそり泣いていた姿を見られていたことなど、想像すら付かないのは無理もない話だ。
「旅慣れて、俺も高を括っていたんだろう、途中で食料が尽きてしまってな、空腹で倒れていたところを、あれに助けられた」
「まあ」
「あれの姉に見付かっていたら、問答無用で殺されていたそうだ」
 イェグランはそう言って笑ったが、セルフィナは顔を青ざめさせた。
「一宿一飯の恩義を返そうと、翌年、再び尋ねて行ったんだが、宝石も衣装も、何も受け取ってもらえなくてな、意地になって通ったのだ」
 ふとイェグランは遠い目をした。
 それはアズフィリアを、というより、そういう自由が許されていたときのことを懐かしんでのことだったが、果たしてセルフィナがどう受け取ったかには思い至らなかった。
「あれがヴィスタリア一族の者というのは聞いているか?」
セルフィナは黙って頷いた。
「伝説の一族などと言われるが、ツァルト国の古い血統を誇る一貴族だ。少なくとも表向きは権力とは全くかけ離れたところにいて、彼等は滅多なことで領地から出ない。それが、いろいろと憶測を呼ぶのだろうな。
 俺が旅の空にあることをとても羨ましがっていたが……あれの場合、領地から出ることを許されていなかったそうだ。だからだろうか、何も願いも望みもしなかったあれが、ふと漏らしたのが『外の世界を見てみたい』、だった。
 だから、これで最後だと訪れた三年目には、宝石などではなく、代わりに旅支度を送ったんだ。
 最初は戸惑っていたが、アズフィリアは差し出した手を取った。まさか、そこから王宮に連れて行かれるとは思わなかっただろうがな」
 イェグランは、悪戯が成功した子供のような顔でリゴル酒を注いだ。
「それが、なれそめって奴だ。
 外の世界を見るという以外に、本当に望みがなかったらしくてな、我が儘を言うわけでもないし、侍女たちと他愛無いことを話すのも楽しかったようだ。箱入りの世間知らずかと思えば、いろいろと勘繰る大臣たちをうまく交わすすべも身につけていたようだし、不思議な女だった」
「……あの、どうしてアズフィリア様は領地を出ることを許されておられなかったのでしょう?」
「過去に大きな罪を犯したのだと、一度だけ口にしたが、どんなことかまでは知らん」
「イェグラン様でしたら、そういったものも寛容にお受け止めになられる度量がおありなのはお分かりでしたでしょうに、どうして出奔など……」
「一族の者が迎えに来たからだ。本人も、それが期限だと割り切っていた。それにな、あれには、待ち人がいた、と思うぞ」
「待ち人ですか?」
それはセルフィナにとっては意外な言葉だった。
「誰か……恋しい男かどうかは知らんがな」
 少し寂しそうにも見え、セルフィナは無神経な問いをしてしまったと俯いた。
それでも、この話を聞いているうちに、気になってしまったことを聞かずにはいられなかった。
「……イェグラン様は、アズフィリア様のことを……」
イェグランは身を起こすと、俯いたままのセルフィナの顎に手を掛けて顔を上げさせた。
「あれは、現世の者じゃない」
「……?」
「ヴィスタリア一族は、あれは、恐らく触れてはならない領域の存在だ。そんな夢幻に恋い焦がれるほど、若くもないさ」
 そんなやりとりで、逆にアズフィリアがイェグランにとって大切な者であるとセルフィナの中で確信させてしまったのはともかくとして。

 部屋を改装しただけでなく、そのひとつをセルフィナに与え、全ての部屋の出入りまでも自由にしたことで、それまで以上にイェグランのセルフィナに対する寵愛が深まったと周囲が微笑ましげに話すようになった。
 そうして、第一皇子が生まれる頃には、グリヴィオラの人々の中から、アズフィリアのことはすっかり忘れ去られたのだった。

(了)
2011.10.22(webclap掲載物再録)


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