星月夜の森へ/番外編

── Redundancy

星月夜の森にて

 心地良い温もりの中で、由井は目覚めた。
 部屋の中は真っ暗だ。
 時間の感覚は曖昧だが、まだ夜は深いことだけは感じる。
 護るように、捕らえるように身体に回されていた腕からそっと抜け出して、傍らにあったシャツを羽織ると、そっと小屋を出た。
 闇に閉ざされた森を抜けて、開けた草地に立って見上げた空には、今にも零れ落ちてきそうなほどの星が、空に瞬いていた。
 頭上に広がる星座は未だ見慣れない。
 銀月楼にいた頃に得た、僅かばかりの知識によれば、天の北極周辺は、創世神ウェルディーンとその妻フォルトゥナが住まう場所とされているらしい。
 太陽神トーレと、双子の月の女神クレイアとパエンナの話や、春の女神シェリン、夏の神ベルハルト、秋の女神ティア、冬の神レギノーにまつわる恋物語と、彼らを象徴する星や星座については上臈の教養として叩き込まれたが、他にどんな星座があり物語があるのまでは知る余裕もなかった。
 今、ちょうど天頂で瞬いているのは、ティアの首飾りと呼ばれる乳白色の星だ。夕暮れ時には、ベルハルトの竪琴と呼ばれる薄紫の星がその座で煌めいていた。あとひと月もすれは、明け方の地平に、レギノーの剣と呼ばれる青白い星が輝くようになるだろう。
 明けの明星、宵の明星と呼ばれる星もある。どちらもトーレの従者とされているが、宵の明星の方は、クレイアの目を盗んでトーレを誘惑する話が幾つもあった。
 シェリンの冠、春の空に輝く薄紅色の星を見ることは、たぶん、ない。
 そんなことをふと思いながら、点の両極を繋ぐように滔々の流れる銀の川を見つめているうちに、この世界にもまた惑星があり太陽系があり銀河系宇宙があるのかと、不思議な心地になっていた。

 かさ、と、微かな草を踏む音に、由井は振り返るよりも早く、肩にマントが掛けられた。
 ──また心配させてしまった。
 夏の盛りとはいえ、陽が落ちてからはぐんと気温は落ちる。
 それに、ふらふらと夜中に森を歩くなど、およそ正気の沙汰とは言えないだろう。
 何よりも、フェンが気にしているのは、ここは、由井がこの世界で初めて目覚めた場所だということだ。本来在るべき世界に帰りたがっているのだと、誤解している。
 帰りたいのに帰れないという葛藤は、いつしか薄らいでいた。
 ただ、ここにいることも、許されない。
 存在するだけで、世界が荒れるのだという彼女の言葉を、戯れ言だと片付けてしまえれば良かった。けれど、それは理屈でなく胸の中にすとんと落ちていた。
 そして、森の枯色が、痩せた獣の死骸が、どことなく沈んだ村の空気が、その納得をさらに強めた。
 早く消えてしまわなければと思う。
 でも、もう少し。
 そう願ってしまうくらいに、フェンとの穏やかな暮らしは心地良かった。
 以前のように、洞穴で暮らしたとて、それは同じだったろう。むしろ、今の方がやや窮屈なくらいかも知れない。
 村の集落からもさほど遠くはない村の外れの小さな家で、由井は息をひそめるようにして日々を送っていた。
 朝になれば火をおこし、水を汲みに行く。
 暖炉での料理も慣れた。
 由井が洗濯をし、森の恵みを分けてもらっている間に、フェンは村へ降りて、食料や衣服など必要な者を調達してくる。
 流れて来る噂は、【金の小鳥】が為したという奇跡の話ばかりで、新たに災厄を齎す者のことなど、井戸端の話にすら上りもしない。
 けれど、人々は終わるはずの凶作の気配が、再び濃厚になっている空気に気付きながらも、【金の小鳥】の出現に、きっと大丈夫だろうと、空々しく目を背けているということに気付かぬ程、フェンも由井も日和見ではない。
 アリューシャたちから渡された路銀は、まだ相当に残っていて、落ち着いたら、また旅に出ることになっている。
 さほど神経質にならなくてもいいのだろうが、一カ所に留まっていればそれだけ人目につきやすいということなのだろう。
 ひっそりと暮らすのにちょうど良い土地は幾らでもあるし、いっそ、この国を出るのもいいとフェンは笑うが、それで、由井が厄災でなくなるわけでもない。

 どれほど満天の星が輝こうと、片方の月でも出ていなければ、夜の闇は深い。
 どうした? と問いかけるように、フェンはかがんで由井に顔を寄せた。
 指先が、由井のこめかみに残る傷痕をそっと撫でた。獣のように鼻先を触れ合わせて、微かな光の中で互いの表情を探る。
 瞳の中にみたものを口にすることなく、頬をすり合わせると互いに唇を相手に押しつけ、小鳥のように啄んだ。
「帰ろう」
 フェンの手に引かれて、来た道を辿る。
 夜中に由井が目覚めた時点で、気が付いていたに違いない。
 朝が近付くにつれて、冷えてゆく森の空気が身体に触らぬうちにと、迎えに来たのだろうことは、由井にも分かっていた。
 再び床についても、しばらく眠りは訪れなかった。
 ほとんど治っているとはいえ、肩に負った傷は冷えると痛むのだ。じわりとした緩い痛みが、なかなか眠りに落ちることを許してくれない。
 自業自得だなと身じろぎをしていると、フェンの懐に抱え込まれた。
 大きな掌が、そっと肩をさする。
「ごめんなさい」
 囁くような声で謝って、由井はフェンの胸に顔を埋めた。
 言葉はひとつでも、たくさんの『ごめんなさい』。
 この世界にとっては厄災でしかない存在で、元の世界に戻れば、家族にとっては厄介者で。
 どこにもないはずの居場所は、唯一『ここ』だ。
 けれど、いずれ遠からぬ内に自分がこの世から消えなければ、厄災はフェンの身にも降り掛かるだろう。
「眠れ。朝まで間がある」
 幼子をあやすように、とんとんと緩やかなリズムでフェンの手が背中をたたく。
 ほんのささいな間違いを盾に取って、縛り付けている罪悪感はあれど、その手の温かさが欲しかった。
 体温を分けてもらったおかげかその手のおかげか、痛みが少しずつ遠ざかるにつれて、意識もまた遠のいてゆく。
 朝が来なければいいのに。
 夢うつつのなかで、さっき見た星空が甦った。

2009.12.24


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