星月夜の森へ/番外編

── Redundancy

風の噂


 戦が行なわれようとしていたような不穏な空気はとうに消え去り、国境でもあるグローディ河近くの都市タラダインは、相変わらず活気に溢れていた。元々交通の要所としても栄えていた上に、街そのものには、軍は足を踏み入れることがなく、ありがちな理不尽が行なわれることもなかったことも暗い影を残さずに済んだ要因だろう。
 更には、王がついに正妃を迎えるらしいこと、三国の和平条約を結ぶ為の会談が近々行なわれるという明るい話題が、僅かに残っていた不安と言う名の暗雲を払拭するのに一役買っていた。
 そんな中、王やその愛妾及び【金の小鳥】が滞在した宿は、連日満室と言う繁盛ぶりをみせていた。
 が、
「いやあ、アズフィリア様のお美しいことと言ったら……」
 と始まったら要注意である。
「【金の小鳥】たるヒナコ様の愛らしさと言ったら……」
 と続き、一日の半分ほどは、宿屋の主人の自慢話に付き合わされる羽目になる、ともっぱらの噂だ。
 もちろん、締めの話題はグリヴィオラ王がいかに猛々しい偉丈夫で、王の中の王たる風格を持っていながら、市井の者にまできさくに声を掛けるような度量の広さをもった、素晴らしい王であるかという話になるのだが。
 さて、この街で、最近密かに人を集めている旅芸人の一座が興行していた。
 果実を真ん中で縦割りにしたような形の共鳴体と水鳥のように長く細い首を持つ本体に四本の弦を張ったリュートを手にした女が、話題を呼んでいるのだ。
 旅人が多いその街では、素朴な旋律と歌声は、郷愁を呼び起こし、やさしく胸を打つのだという。
 劇の幕間の僅かな時間、爪弾く姿はうすぬのに映る影ばかりということもあって、果たしてどんな女が歌っているのかと様々な噂が飛び交っている。顔に酷い傷を負っていて、人々の前に晒せないのだろうというものから、実は逃亡中の罪人だというもの、実は大変に高貴なひとがお忍びで、といったものの他、美貌に群がる男たちの浅ましさに世を儚む絶世の美女というのまである。
 旅の一座にとって、それが客を呼び寄せるだけのものであったうちは良かったのだが、劇よりも歌を聴く為に興行に訪れる客の方が多いのではないかさえ言われる有様では、役者たちの方の気分は穏やかではない。もともとこの一座の者ではなく、何でも手伝いをするから同道させて欲しいと言って同行しているだけなのだ。にも関わらず、彼女が戯れに爪弾いたリュートと歌声を座頭がいたく気に入って、気紛れに、幕間の場繋ぎに客の前に出したところ、それが一座の人気を凌いでしまったのだから、特に看板役者たちは面白くないのは当たり前だ。
 けれども、女は裏方の仕事を厭う事もないし、最初は不慣れだった料理なんかも、最近は器用にこなす。長い金茶の髪を無造作に結って、晒されている顔立ちは文句なく美しい。無論、不埒な事を考える男は皆無ではなかったが、さらりと交わして後に引き摺ることはなかった。女たちも、その女が圧倒的な美貌と絶対的な雰囲気を持っていなければ、八つ当たりに陰湿的な行為に及んだだろうが、まるで女王のような存在感がそれを阻んだ。
 その上、彼女の態度は常に一座の者たちには一歩引いていた。
 ちょっとした使いも嫌な顔ひとつせずに行くし、出番間近の女優に髪や衣装の裾をさりげなく整えたり、舞台の後、衣装の解れを直したりもする気遣いの細やかさは重宝がられた。
 とはいえ、身内として扱うには、見えない壁のようなものが感じられた。それは、あくまで一時的な客人に過ぎないのだと、彼女自身が境界線を引いていたのだろう。
 実のところ、こんなことはタラダインが初めてではなかった。カーラスティンの宿場町ムレットから同道して半年ほどの間に、もう三つの街で興行を終えていた。
 彼女がその歌を人前で披露するようになったのはグリヴィオラの王都ラリッサでの興行を終えたあとのこと、二つの目の街、カラシェでのことだった。
 すこし掠れた低い声で歌われたのは、初めて聴いたはずのに何処かで耳にした記憶を揺り起こすような旋律の、おそらくは何処か地方の古い歌謡なのだろう、季節の巡りを讃える歌だった。
 春の目覚めから始まって、夏の光の美しさ、秋の実りへの感謝、冬の穏やかな眠り……
 短い歌の間に、誰もが一年というときの長さを追憶し、たった一日でその歌の噂は街に広まった。
 もし、座長が愚かであったなら、その女をもっと表に押し出して売り出しただろう。そして、座の空気を険悪なものしていたに違いない。けれど座長はそうしなかったし、女も幕間の僅かな時間以上を望むことはなかった。
 一ヶ月に渡るタラダインでの興行の楽日を終え、その晩は一座の誰もが上機嫌で互いにねぎらいの杯を交わしていた。その間、世話を請け負った宿屋の主人までがそれに加わり、楽しい宴は和やかに盛り上がっていた。
 女は黙々と給仕に徹して、請われるままに酌をしたり空になった皿を下げて代わりの料理を配ったりと気忙しく働き、その割にはその存在はまるで空気に融けているようだった
 賑やかなざわめきが途切れたのは、その場に現れたひとりの男のせいだった。
 見かけからは随分と旅慣れた様子の、そして、女たちが色めき立つくらいには整った造作の顔立ちと雰囲気を持った男の。
「すみません、ヴィリスがこちらでお世話になっていると聞いたんですが」
 誰もが、誰の事だと顔を見合わせた。
 座長も少し酔いの回った口調で、そんな者は知らないと男に告げた。
「あの、ムレットから、同道させてもらっているはずの……」
 ざわりと空気が揺れる。
 あの女は、ヴィリスという名ではなかったはずだ。
 それはともかく、さっきまで給仕をしていて、さて、何処にいるのかときょろきょろ見回しても見当たらない。調理場に尋ねても、そういえばいつの間にかいなくなっていたという。
 不穏な空気が流れ始めたころ、きい、と食堂から客室のある棟へ通じるドアが開いた。
 そこには、旅装束に着替えた女の姿があった。
「遅かったねえ」
 これまで一座の者が聞いた事のない、蓮っ葉な口調。
「別に約束してたわけじゃあ、ないだろう」
 男の方も呆れたように返す。
 艶やかな、笑みがそれを受け止めた。
「ヴィリス……ヴィリス・シュティーク、銀月楼の?」
「まさか」
 そんな言葉が伝播する。
「お世話になりました」
 優雅な所作で、彼女はお辞儀をした。
 それは紛う事のない、アトール仕込みのもの。分かる者には分かる。
 くすりと悪戯っけたっぷりの笑みを向け、彼女は彼らの中から抜け出してゆく。
 そして、最初からいなかったかのように何処かへと行ってしまった。

 やがて、噂好きの宿屋の亭主が新しい自慢話をするようになった。
「いえね、弟がやってる宿屋が世話した一座に、歌姫がいたんですけどね……」
(了)
2009.11.03(web clap掲載物再録)


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